比喩表現というのは、技巧的にはごくごく有り触れたものである。「○○のように」、「○○みたいに」という語句は日常的に発せられるものだし、例えばこの記事のタイトルも比喩になっている。とは言え良き比喩という話になると、少々首を捻りたくなる。
そもそも比喩とは何の為にあるのだろうか? 本来は「相手にとって未知の物事を伝える際に、イメージし易いよう類似の事柄を引き合いに出す」ことを指すのだろう。だが近頃は、むしろその表現様式こそが重宝されているのではないかと思わせられる。だらだら文章を書いていると、文末が「だった」や「だろう」のように連続してしまうことが多々ある。そこに適当な比喩を落とし込んでやることで、執拗な流れを断ち切って文章全体をきりっと引き締めることが出来るのだ。突然差し挟まれるドラムの三連符のように(果たしてここでの比喩が適当かどうかは分からないが)。
変な話、文体というのはドラムに似ている。それ自体が主張すれば耳障りだが、かと言って単調であってもいけない。他の楽器を邪魔することなく、しかしウィットに富んだ遊び心が求められる。その主戦場とも言えるのが比喩なのだろう。
とは言え、そうしたテクニカルな部分ではなく、本来的な意味での比喩の良さについてはどういうことを言えるのだろう。素晴らしい比喩とは何か? 再びこの疑問を口にするとき、私が思い出すのはROSSOというロックバンドの「1000のタンバリン」という曲だ。その曲の中で、ヴォーカルのチバユウスケがしゃがれた声でこう叫ぶのだ。
そして見上げれば 1000のタンバリンを 打ち鳴らしたような星空
この曲を耳にしたとき、私は稲妻に打たれたようなショックを受けた。何せ、「タンバリン」と「星空」である。聴覚に訴えるタンバリンと、視覚で認識する星空が、この簡潔な一文に共存するのだ。そして一言も言及されていないのに、この文章を見れば(或いはその曲を聴けば)誰もが「満天の」星空をイメージすることだろう。
それはきっと、1000のタンバリンが発する煌びやかな金属音が、聴く者の無意識によってそのまま星空に投影されるからではないだろうか。そして満天の星空は、言うまでもなく静寂に包まれている。タンバリンの音が夜の帳に吸い込まれ、そのまま怜悧な輝きとなってあまねく地上へと降り注ぐかのようだ。その静けさは肌が粟立つほどである。
良き比喩とは恐らく、AをBに例えるというような単純な図式ではないのだ。寧ろAをBに例えることで、Cという新しい世界に導いてくれる、それこそが比喩の真髄と言えよう。満天の星空を1000のタンバリンに例えることで、その輝きを不滅のものとしたように(ちなみにチバユウスケはこの記事を書く半年ほど前に他界してしまった。タンバリンなど叩くまでもなく、彼は紛れもないロック・スターだった)。
聞いた話によると、あるダイエット食品は砂糖を用いず、その代わりにバニラを使うのだという。ソフトクリームの定番がそうであるように、バニラには甘味のイメージがあるから、例え砂糖を使っていなかったとしてもそこに甘さを錯覚するのだとか。だがその味は舌の上ではなく、自らの内側から出て来たものだ。素晴らしい比喩とは、すなわちバニラのようなものである。
要するに、類似の事象を引き合いに出すことで、そこにはない描写を読者自身の中から汲み上げてくるのである。それがどんな文章にも太刀打ちできない表現になることは疑いようもない。何故ならその情報は書き手ではなく読み手から発せられるものなのだ。これ以上の説得力が、果たしてどこにあるのだろう?
ところでバニラには、英語圏のスラングで「つまらない」「平凡だ」という意味があるそうだ。バニラ味が定番であるように、それは一見するとプレーンな状態を想起させるのだとか。
そういう意味では、バニラな比喩は避けたいところである。