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【書評】街とその不確かな壁【村上春樹】

  その昔、シェイクスピアのある戯曲を読んだ時、そこに奇妙な違和感があることに気が付いた。前半と後半で、ある登場人物の立ち回りが違い過ぎたのだ。それも特に何の説明もなく。

 恐らくは、シナリオの都合上その役割を変更せざるを得なかったのだろうが、文庫版の解説では、「……右に述べた心理や性格の不明確という事も、いわば論理的な観点に立ったものに過ぎない。その圧縮された詩的表現は、説明上の曖昧を超えて、読者や見物を統一した劇的発展の中に否応なく引きずりこんで行くのである」という風に表現されていた。(新潮文庫マクベス」の福田恆存氏解説より)。

 古臭い表現であるが、私は「霊感」という言葉を思い浮かべた。論理や秩序を置き去りにした、詩的霊感なるものが、この世には存在するのである。そして村上春樹は、恐らくその自身が抱く霊感に、100%身を委ねることで言葉を紡ぐ作家なのではないだろうか。

 

 村上春樹は、論理に重きを置く作家ではない。寧ろそのスタイルは即興的で、時々それが(恐らくは作者自身の想像を超えて)思いもよらない形で引き結び合う、そういう奇跡みたいな瞬間を文章にするのが上手な作家なのだと思う。

 勿論それは裏打ちされた筆力の賜物であることは言うまでもない。本来は荒唐無稽な筋であったとしても、その巧みな描写と映画的演出によって、「そういうこともあるのかもな……」と思わされてしまう。現実という重力に引かれつつも、巧妙な角度で地上との間隔が開いていき、気付いたら完全に空の上まで飛び去っている。村上作品がマジックリアリズムに分類されるのも、この辺りに素因があるのではないか?

 

 特に私が感心するのは、著者のストーリーに対するメタ的な視点である。村上春樹の作品には謎が多く、読者がその全てを把握して読み進められる機会はほとんどない。ただ村上作品は、ストーリーを進める決定的な何かが、悉く欲しいところで持ち上がるのだ。起承転結の青写真を描く能力が頭抜けている、と言い換えることも出来るかもしれない。 

 しかもそうした出来事の大半は秘密のベールに包まれていて、その全貌を伺い知ることは許されない。主人公は、何が起こっているか分からないが、何かをしなければならない状況へと否応なく誘われていく。だから論理的な裏付けがなかったとしても――いやむしろないからこそ、我々は主人公の直面する混乱を共有せざるを得ないのである。無理筋な話でありながら、「そうはならんやろ」という気持ちにならないのは、そうした作者の手腕が振るわれた結果だろう。

 

 とは言え、弱点もある。村上作品はその奇妙な物語を成立させる都合上、異分子に対する受容度が高いのだ。その作品群には様々な人が登場する。教師も、医者も、不良も、浮浪者も、言葉を話す猿も、老若男女問わず様々である。そしてそれらの登場人物は、大抵の場合、主人公が巻き込まれる一連の異常な出来事に対して、奇妙なまでの親和性を見せるのである。

 勿論、非現実的な光景を前にすれば、礼儀正しく「こんなことは有り得ない」というモーションを取りはする。ただそれは飽くまで現実世界とのすり合わせの為に導入された様式美で、その本質は何処までも寛容である。仮にもしそうでない要素が紛れ込んでしまえば、それは冷や水のように読者を現実世界へと引き戻してしまうのではないか? 村上春樹の魔術的なストーリーテリングは破綻を来たすのだ。そして飛行機は離陸する揚力を失い、滑走路にタイヤ痕を刻むこととなる。そんな光景がありありと眼に浮かぶ。

 

 その調和の取れた穏やかな世界こそ、村上春樹の持つ最大の弱点であり、同時に魅力なのだろう。その世界ではワインのコルクをナイフで抜き、目覚めると下着姿の男がほうれん草の入ったオムレツを作り、隣家の火事の気配に耳を澄ませながらギターを弾かなければならない。それはさながら低反発寝具のようなもので、すっぽりと嵌ればこの上ないのだけれど、そうでないなら非常に座りが悪い思いをする。それが所謂、村上主義者とそうでないものを区別する分水嶺となるのではないだろうか? 残念ながらこの壁は、絶望的なまでに厚くて高い。

 

 そして数奇なことに、今度の村上春樹の長編は壁をテーマにしたものである。それも絶望的に厚くて高い、逃げ場のない壁である。

 

 

 

 

  • 街とその不確かな壁

十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。

 

 以上が、新潮社のサイトに掲示された粗筋である。ここからは致命的なネタバレは避けつつ感想を述べていきたい。

 

 まず物語りの成り立ちについて。本書はその昔、文學界に発表された「街と、その不確かな壁」という小説のリメイクであるとされている。リメイクと言っても大幅に加筆修正され、特に三部構成であるうちの二部と三部はすっかり新しいものだということだから、ほぼほぼ新作と呼んで差し支えないだろう。

 

 さて、その肝心の中身であるが、これはちょっと一言でどうこう言えたものではない。単純な物量として簡潔にまとめがたいというのも嘘ではないが、何より矢張り物語の抽象度が高過ぎるのだ。

 

 ざっくり言うと、第一部は主人公と彼女が壁に囲まれた街で過ごす話で、二部は壁の外での話。第三部はそれらの交点とも呼ぶべき短い終章である。そこには文学的なカタルシスもないではないが(作者曰く、「両側から掘り進めてきた長いトンネルが、中央でぴたりと出会ってめでたく貫通するみたいに」)、正直私の読んだところ、あっと驚く伏線回収というような具合ではない。寧ろなるべくしてそうなったという、予定調和感の方が強い。恐らくであるが、著者もそこにどんでん返しのような派手さは期待していないだろう。そこにはそうあらねばならないという、ある種の必然的な流れに身を寄せた気配が漂っている。

 

 かつて村上春樹は、ドストエフスキーを評して「様々な形の地獄を見せてくれる作家」と呼んだ。それで言うなら、村上春樹は「様々な形の喪失を見せてくれる作家」である。

 ストーリーで言うと、この小説には全体的に哀切なトーンが漂っている。第一部ではいなくなった彼女への成就することのない恋慕が描かれ、第二部では街から排斥された主人公の新しい生活(その言葉ほどポジティブな意味合いはないが)と惨めな憧憬に紙面が費やされる。それだけでなく、二部は現実の世界で様々な喪失した人との関わり合いを深めていく。そして第三部で、トンネルは貫通するのである。

 

 村上春樹は、比喩を具体的に扱うタイプの作家であると心得ている。当然ながら、本書の主要なテーマである「壁に囲まれた街」もまた何かしらのメタファーであるのだろうが、ややこしいのはその仮定が更なる仮定を生み出しているところだ。

 例えば、街には様々な暗黙のルールが存在する。眼を傷つけられなければ入れない、図書館で古い夢を読まなければならない、他人と深く関わり合いを持ってはならない、自身の影に触れてはならない、等々である。それらもまた何かしらの比喩なのだろう。ある比喩が別の比喩を生み、仮説が別の仮説の根拠となり、それがフランツ・カフカの不条理小説のように息苦しく山積していく。本書を読んで私が連想したのは、カフカの「城」だった。煩雑な手続きに忙殺され、翻弄されるにも関わらず、いつまで経ってもその城門が開かれることはない。

 だが結局のところ、そうやって比喩を膨らませた先にあるのは、際限なく役職の増えるチェスである。そのストーリーは著者の都合でどうとでもなってしまうので、手放しで絶賛という訳にはいかないのだろう。第三部が駆け足な印象となってしまったのも、そうしたご都合主義のもたらした弊害ではないか? そんな邪推が過ってしまう。

 

 とは言え、そんな批判めいたことを書きつつも、矢張りそこは村上春樹である。はっとする文章や滋養に満ちたユーモアは健在であるし、そこには新しい挑戦も垣間見える。

 

 中でも印象的なのは、その時間に対する認識である。主人公の若かりし頃と、中年になった現在、それから針のない時計台を有する街の中では、それぞれ異なる時間の認識があるようである。若い頃はもちろん掃いて捨てるほどの時間があり、歳を取るにつれそれは減っていく。そして街の中では、時間は意味をなさなくなるのだ。本書全体に通底する悲痛なトーンと、損なわれていく時間の中で、そこに一つの問いが結実するように思える。即ち、「時は痛みを癒すのか?」。

 一読したところ、その答えは否だったようだ。かと言って時間を止めてしまったところで(即ち壁に囲まれた街に逃げ込んだところで)、そこがパラダイスかと言えばそうでもない。そこは人々が貧しく暮らし、厳しい寒さが幻想の獣を殺す、荒涼とした場所である。残念ながらそこに救いがあるとは思えない。

 

 では救いは何処にあるのだろう。時間によってさえ癒えない傷口を、どのようにして癒せば良いのか? 明言されてはいないが、その糸口となる解釈は可能であるのかもしれない。けれどそれをこの場で述べるのは本意ではないので、飽くまでここでは(作者こそ違うが)近しい文書を引用するに留めようと思う。

 

 これはドストエフスキーの「罪と罰」の一節で、中でも私が最も好きな箇所である。

そりゃわたしだって、容易に信じられないってことはよく承知しています――がまあ、あまり理屈っぽく詮索しないで、何も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい。心配することはありません――ちゃんと岸へ打上げて、しっかり立たせてくれますよ。では、どんな岸かといえば、それはわたしにゃわかりっこありませんよ。ただあなたはまだまだ生活すべきだと、こう信じておるだけです。

青空文庫罪と罰」より引用。私の親しんだ新潮文庫の「罪と罰」は実家に置いてきてしまった。そのことに若干の後悔を感じつつ)。