話題になった頃に買ったものの、読むタイミングを逃し続けていた本である。先日Netflixで映画化作品の一部を見掛け、読んでみようという気になった。厚めの本であるが、読み始めるとぐんぐん吸い込まれるようにページが進んだ。
帯に書かれた販促用の文言は秀逸である。「この少女を、生きてください」。小細工なしの直球勝負、必要なのは時間と集中力だけである。付け加えるなら、少しの愛情があれば良い。しかし本当のことを言えば、後ろの二つは不要である。読み始めれば没頭せずにはいられないし、この湿地の少女を愛さずにはいられないのだから。
- 粗筋
ノース・カロライナ州の湿地で男の死体が発見された。人々は「湿地の少女」に疑いの目を向ける。6歳で家族に見捨てられたときから、カイアは湿地の小屋でたったひとり生きなければならなかった。読み書きを教えてくれた少年テイトに恋心を抱くが、彼は大学進学のために彼女のもとを去ってゆく。以来、村の人々に「湿地の少女」と呼ばれ蔑まれながらも、彼女は生き物が自然のままに生きる「ザリガニの鳴くところ」へと思いをはせて静かに暮らしていた。しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に近づく……みずみずしい自然に抱かれて生きる少女の成長と不審死事件が絡み合い、思いもよらぬ結末へと物語が動き出す。
- 感想
粗筋から読み解けるように、ミステリー色の強い作品である。定石にのっとり冒頭からチェイスの死体が提示され、その捜査と並行する形で読者はカイアの人生の伴走者となる。
とは言えいわゆる本格ミステリーかというとそうではなく、本書の大半が費やされる沼地での生活は文学的であり、差別や偏見は社会派小説の趣を含んでいる。そうした物語のカテゴリーを容易く飛び越え、カイアの人生は読者を深みへと引き摺り込んでいく。まさしく「少女を生きる」である。
本書を読み、最初に連想したのはマルグリッド・デュラスの『太平洋の防波堤』だった。沼地の陰鬱な雰囲気と、蟹が防波堤を駄目にしてしまう退廃的なデュラスの世界が重なったのだ。しかし沼地は防波堤と異なり、そこにある種の優しさも織り込まれている。「生き物があるがままに生きていくことによって紡がれる優しさ」と言い換えても良いかもしれない。動物学者である著者の見地が生かされたその沼地は、カイアにとって心安らぐ家として描写されながらも、同時に村の人々にとって得体の知れない不毛の地としての側面を保ち続ける。
カイアは恵まれた生まれとは言えなかった。考え得る限り最も劣悪な部類と言っても過言ではないだろう。家族に見捨てられ、文字を読むことも出来ず、孤独の中で貝を掘り返して生きていくことしか出来なかった。個人的な話で恐縮だが、私は高校から大学にかけて福祉関連のアルバイトをしたことがある。そこで耳にした言葉が蘇った。「最も支援を必要としている人は、最も助けたくない姿をしている」。幼いカイアが村で受ける扱いを見ていると、胸が締め付けられるようである。
しかしカイアは、テイトという少年との関係を得ることによって、部分的にではあるが社会との交流に加わることが出来た(それすらも時によってはカイアを傷付けることになるのだけれど)。前述した言葉とは裏腹に、カイアは美しく成長する。しかし私はそこに、物事の道理を超越したしたたかさを見るような気がするのだ。カイアは言う。
「その本能はいまだに私たちの遺伝子に組み込まれていて、状況次第では表に出てくるはずよ。私たちにもかつての人類と同じ顔があって、いつでもその顔になれる。はるかむかし、生き残るために必要だった行動をいまでもとれるのよ」
カイアの美しさは、彼女を生かす為の美しさだった。カイア自身が湿地の一部となって、その泥の中へと大地を飲み込んでいくかのようだ。果たしてそれが、本当にカイアの願いであったかは定かではない。だがここに至れば、カイアの意思など些事に過ぎないのだろう。何故なら結果としてカイアは、必要とするものを全て手に入れたのだから。
私にはそれが、著者がカイアの為に用意した「かつての人類と同じ顔」であるような気がしてならないのだ。カイアという存在は、もしかするとこの小説における密やかな比喩として機能しているのかもしれない。人に内在する暴力性のメタファーである。この小説はそれを最も冷淡で美しく肯定しているのかもしれない。
さて、本格ミステリーではないと書いたものの、それはホームズやポアロのような王道の推理小説ではないということを言いたかっただけで、ミステリーとしても一級品である。著者の心理誘導や、結末に向けての巧妙な手腕には舌を巻く他ない。それをつぶさに取り上げても面白いと思うのだけれど、やはり是非自分の眼で確かめるべきだと思う。
そして読み終わった後、自分の足が村と沼地、どちらの側にあるかを見てほしい。どちらであったとしても間違いではない、というよりも、本来それは区別されるようなものではないのだろう。村と沼地の境界線が潮の満ち引きで変化するように、人もまた肌色をした獣に過ぎないのだから。そして動物的な本能は、常に人を生かし続けるのだ。