現在、大阪の天王寺にある「あべのハルカス美術館」では、「広重 -摺の極-」という展示が催されている。広重とは無論、「東海道五十三次」で有名な、あの歌川広重である。今回はその展示に行ってきたので、簡単に感想を纏めたい。
私が美術というものに関心を持ち始めたのは数年前のことだ。友人にウィリアム・モリス展に連れていかれ、そこから徐々に美術館へと通うようになった。
美術館の良いところは、それが市民に開かれた場であるという点である。大体の美術館は手頃な値段で入館できるし、それでいて教科書でしか拝めない作家の作品を目の当たりにすることが出来る。
とは言え、美術に興味のない人から「それがどうした?」という声が上がるのは、想像に難くない。「結局、美術の価値ってどんなところにあるの?」とか「金持ちの道楽なんじゃない?」とかならまだ良い方で、「美術館に通うお洒落気取りのスノッブ」なんて眼で見られれば、もう堪ったものではない。
しかし違うのだ。美術館とは、そもそも一部の富裕層しか見れなかった美術品を、一般市民が見られるように整えられた、市民の市民による市民の為の設備なのである。むしろ、見なければ損なのだ。そんな風に思うようになってから、(例えは悪いが)公衆トイレでも使うような感覚で、私は美術館を利用できるようになった。
さて、では肝心なその美術の価値という奴であるが、これに関しては自信を持ってズブの素人であることを打ち明けたい。とは言え書籍で調べれば色々と新しい視点も手に入る(ような気がする)もので、そういう自分の眼を試しながら見るというのもまた一つの楽しみなのだ。
参考までに、秋田麻早子さんの書かれた「絵を見る技術」という本は大変為になった。初心者にも易しいし、実例も豊富に載っているので、これを読んだら次の休日に美術館へと行きたくなること請け合いである。
そんな私は、西洋画に関してはそれなりに見てきた経験があるけれど、日本画は皆無である。そうした中での歌川広重展であるが、いやあ、楽しかった。
西洋画に対する日本画の特色は、平面的な構図や独特な色使いなどが挙げられるのが一般的である。勿論それは広重にしても同じことで、俯瞰した風景が主である「東海道五十三次」や「ヒロシゲ・ブルー」として知られるプルシアンブルーなどが良い例である。
特に今回の展示で印象的だったのは、風景版画の中でも海を題材としたものである。ヒロシゲ・ブルーの鮮やかな水面に、船舶の帆が切り抜かれた四角形に並んでいる。静的な絵であるのに、見ていると磯の香りがしそうである。
風景画を得意とした広重の技法は、バリエーション豊かである。岩肌や樹木のうねりは、時に自然の景観を印象付ける為に強調され、絵巻物の世界へと誘うかのようだ。その鳥瞰的な視座の中で、人々は小さく背を丸め、何処ぞへの旅路の最中を切り取ったかのように映し出される。
その背は疲れが滲んでいるようでもあり、小さな幸せを噛み締めるようでもあって、つまりは普通なのである。行き交う人々は、飽くまで風景の一部に過ぎないのだが、だからこそそこに等身大のドラマを伺わせる。
ちなみに私が好きなのは雨の降っている風景だ。思えば、西洋画で雨を扱ったものは少ない。細い糸のような雨を平行に配置し、時折ランダムに錯綜させることによって、日本画の雨はより説得力を持ってそこに降り注ぐようである。篠突く雨という表現がしっくりくる。
ところで、版画はその表現技法の都合上、絵の構成を維持したまま色彩を変えることが容易である。事実、今回の広重展でも、異なる色調の作品が隣同士で展示されるという趣向が散見された。
ふと私が思い返したのは、以前眼にしたモネの展示だった。クロード・モネは印象派の開祖として名高いが、それとは別に連作という表現技法もとっている。連作とは読んで字のごとく、モティーフはそのままに時間を変えて何枚も作品を作ることで、そこに現れる色調の変化を、絵画同士の関係性の中に留めようとする技法である。
かの有名な睡蓮が日本で拝めるのも、モネが修行の如く大量のそれを描きまくったからに他ならない。そしてモネは、浮世絵から影響を受けた作家としても知られている。もしかするとモネも、色遣いの異なる版画を眼にして、連作という手法に臨んだのではないだろうか? そんな妄想を働かせながら帰途についた。
さて、このブログは本関連の情報を扱うブログである。折角なのでこの記事の最後にも、広重に関係のある書籍を扱いたい。
広重の作品には、源氏物語を題材にした「源氏物語五十四帖」なるものが存在している。五十四帖と銘打ってあるものの、確認されているのは「桐壺」から「若紫」までの五図のみである。
この五図には統一された様式があって、画面の上下を金砂子を撒いたような雲形が挟み込んでいる。その所為か、そこに写り込む物語の場面には閉塞的な感じを受ける。これは読者の視点か、はたまた作者の視点を意識したものだろうか? 光源氏が若紫を垣間見する場面などは、隠れ見る源氏を更に上の視点から覗き見ているようで、ある種背徳的な魅惑すら感じるものである。
歌川広重がもしこの先の話を描いていたら、どんな絵になったことだろう。源氏が須磨へと追い遣られる道中なんかは、様になったのではないだろうか? そんなことを妄想してみるのもまた面白いかもしれない。