私と弟がまだ小さかった頃、近所の田んぼでカエルを捕ったことがある。
どうしてそんなことになったのかは覚えていないけれど、とにかく捕って捕って捕りまくった。きっと子供心に狩猟本能をそそられたのだろう。だとしても、帰る間際に逃がしてやれば良いものを、私たち兄弟は虫かご一杯に持ち帰ってしまった。子どもながらに、手に入れたものを手放し難かったのかもしれない。
そしてあろうことかそれを、自宅の駐車場に置き去りにして忘れてしまったのだ。いや、正確には覚えていたが忘れた振りをしたと言うべきだろう。その大量のカエルをどのように飼育すれば良いか分からなかったし、また処理するにしてもその手段を持ち合わせなかったからだ。結果的に虫かごに入れたカエルたちはそのまま夏の盛りを過ごすこととなり、秋になり、冬になった。そして私たちは本当にカエルの存在を忘れてしまった。
翌年の夏になって、私と弟はそれを異臭のするヘドロとして再発見することになる。私たちは母親に命じられるまま、それを清掃することとなった。恐ろしいことに、蓋を開けると、そこには生きたカエルが存在していたのだ。恐らくは共食いなり産卵なりを繰り返しながら、その無慈悲な生存本能に沿って生き永らえてきた固体なのだろう。カエルは感情の籠らない瞳を、新しく開かれた外界に向かってぱちぱちとさせていた。私と弟はホースの水圧で、死骸もろともそのカエルを自宅前の側溝へと流し込んだ。
ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読み終えた後、私が思い出したのはそんな少年期の記憶だった。それは仄暗い罪悪感と共に封をしていた筈の思い出である。その仄暗さは、或いは「百年の孤独」に漂うそれと同質のものであるかもしれない。そこで犠牲になるのはカエルではなく、呪われたブエンディアの一族であるけれど。
- あらすじ
蜃気楼の村マコンドを開墾しながら、愛なき世界を生きる孤独な一族、その百年の物語。錬金術に魅了される家長。いとこでもある妻とその子供たち。そしてどこからか到来する文明の印……。目もくらむような不思議な出来事が延々と続くが、預言者が羊皮紙に書き残した謎が解読された時、一族の波乱に満ちた歴史は劇的な最後を迎えるのだった。世界的ベストセラーとなった20世紀文学屈指の傑作。
- 感想
まずこの本を語る上で、「マジックリアリズム」という要素を避けることは許されないだろう。何故ならこの小説は、マジックリアリズムという言葉が擁護してくれなければ、到底受け入れられないほどの奇妙さを含んだ作品だからである。
ここでいうマジックリアリズムとは、ちょっと不思議な出来事が起こるとか、そういう生易しい次元ではない。例えば、次のような一文が象徴的である。
ジプシーはこのまま町に落ち着くつもりだった。実際に死の世界にいたが、孤独に耐えきれずにこの世に舞い戻ったのだ。
死者蘇生がこんな具合にさらりと起こってしまうのだ。しかも周りがそれに驚嘆するなどということはない。出先で古い知り合いに出会ったかのような具合に、それを簡単に受け入れてしまうのである。
この世界では、自殺した息子の血がはるばる母のもとまでその死を知らせに行き、魔法の絨毯が宙を舞い、幽霊が廊下を闊歩する。シュールと片付ければそれまでだが、この眩暈のするような現象を前にし続けていると、次第に読んでいる側の意識もマコンド仕様にチューニングされていってしまう。そして恐ろしいことに、この奇異な現象の大半は、ストーリーにとってどうでもいい挿話なのである。
そもそも、この「百年の孤独」という物語に、一貫したストーリーを期待する方が間違っているのかもしれない。「百年の孤独」は、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの間に生まれた子孫たちを中心とした物語である。
登場人物は膨大で、しかもその半数以上がアルカディオかアウレリャノの名を継いでいて、家系図がなければまともに読み通すことさえ難しい。そしてこの物語には、凡そ通底するテーマというものが存在しない。あるのは膨大な挿話の積み重ねであり、どうしようもない敗北ばかりである。
さて、ではこの記事の表題にも掲げた孤独とは、一体何だったのであろうか? それはきっと、人間関係的な意味での孤独ではないのだろう。何故なら「百年の孤独」は、大体どこを切り取ってもやたらめったらに親族身内が存在しているからである。中には孤独を選んで閉じ籠る登場人物もいるけれど、それは例外的な扱いと言っていいだろう。
では孤独とは何か。ここからは主観的な感想であるが、それは生きることそのものの無為にまつわる感情ではないだろうか。マコンドの迎える運命を読み終えた時、私はこの膨大な物語の最後にカタルシスがあるのではないかと思っていた。だが私が得たものは、行き場のない徒労感ばかりだった。
それはマコンドで生きた人々が逃れられなかった徒労の影ではなかったか。行く当てのない魂は、何をするでもなくただ彷徨うばかりである。ふと、ぞっとする想像が過った。私たちもまた、それとは知らないだけで、生ける亡霊なのではないだろうか。それと自分を隔てる境界線が、このマジックリアリズムの前では霧散してしまうのである。