「人間と大腸菌、どちらが進化した生き物だと思う?」
大学の頃、留学生の友人にこんなことを尋ねられた。当時の私は相手がそう答えさせようとしているのだなと勘繰りながらも、「人間」と答えた。私はてっきり「残念、大腸菌です」という答えが返ってくるのだと思っていた。大腸菌の能力を引き合いに出し、人間より勝っている云々という話が続くのではないかと邪推したのだ。しかしそうではなかった。
「残念、人間も大腸菌も同程度に進化しています。何故ならどちらも環境に適応して生き延びているからです」
成程、確かに言う通りかもしれない。生存戦略として人間は知能を発達させたが、大腸菌は繁殖能力を手に入れたのだ。その進化の差を問うというのは、ビーバーの歯とキリンの首はどちらが優れているかと問うようなものだ。そもそも「もの」が違うのだから比較できないのである。
私は感心しながらも、自分の生物学的知識のなさに羞恥心を覚えていたのだが、本書を読む限りそうした勘違いは珍しいものではないらしい。この書籍は、そんな進化論の姿を歴史的経緯や議論を踏まえながら紐解いていく。そういう意味では解説書に近い手触りを持っている。
ただし印象的なのが、それらの起点としてお決まりのエピソード(ガラパゴス諸島のゾウガメやイグアナ)を取り上げるのではなく、進化における理不尽な側面に言及している点である。タイトルでもある「理不尽な進化」というのは奇妙な言葉のように思える。進化というのは環境の適応した結果であり、それを理不尽というのは何だか我儘な気さえする。
しかし本書を読み終えた後であれば、この理不尽さを理解することが出来る。それは生き物本来の姿であり、それを理不尽とする感性こそが、この本の主題となるテーマなのである。ただし取り組む際は少し注意を要するかもしれない。生物学のちょっとした読み物を期待していれば、些か哲学的な内容にカウンターパンチを食らってしまうかもしれない。
- 概要
生物種の99.9%が絶滅する。生物の歴史はずいぶんと「理不尽」な遍歴をたどってきた。本書は、絶滅という観点から生物の歴史を眺め、俗説が人びとを魅了する構造を理解することで、進化論の本当のおもしろさを読者に差し出す。アートとサイエンスを全方位的に見渡し、かつ両者をあざやかにむすぶ、現代の名著がついに文庫化。
- 感想
告白すると、「騙された」と思った。私が期待していたのは、「サーベルタイガーは自身の牙を長くした為に絶滅した」という類の、ちょっと間抜けな進化エピソードが収録された本だった。
実際は違う。本書は進化論の思想史に近く、定義を巡る論争や実態を論じる紆余曲折は、ほとんど哲学書の類と言っていい。そして気付けばぐいぐいと読み進めてしまっていた。最後の解説のページを見て笑った。養老孟子さんが私と全く同じような経験をされているのだ。光栄な限りである。
さて、本書の中心的な題材になるのは、かの有名なダーウィンの進化論である。議論の出発点となるのは、この進化論が巷では勝者の理論として成立しているという点である。「勝者は生き残り、弱者は滅ぶ」という弱肉強食の世界観は、進化論と絡めて世に蔓延っている。
しかし本質はそうではない。何故なら恐竜が絶滅し、人間の祖先たる小型の哺乳類が生き延びた時、それを単純な「勝者/敗者」という見方で割り切ることが出来ないからである。
定説では、恐竜は隕石の衝突によって滅んだとされている。それまでの環境下では恐竜が圧倒的な趨勢を誇っていたが、隕石による急激な環境変化が優劣の差を決するルールを変えてしまったのだ。哺乳類が生き延びたのはある種の偶然に他ならない。
この偶然性こそが、科学的アプローチから見過ごされてきた真理であると、本書は執拗なまでに繰り返す。勿論、それにはそれだけの理由がある。その重要な思索の一つとして、科学とアートの対比があげられる。
著者はドーキンスとグールドの議論を中心に辿りながら、「進化論とはどのようなものか」を紐解いていく。それは科学的に検証可能なアプローチであり、その歴史的経緯から見ても有用とされる手法であるという定説が補強される。
しかしだからと言って、議論の敗者であるグールドの批判を完全に捨て去る訳ではない。グールドの「進化論は歴史を軽視している」という非難を、著者はある程度認めている。それを補填するのがアートの視点という訳だ。
どういうことか。一例として、鳥類の翼を取り上げたい。鳥は翼で空を飛ぶが、それは決して飛行目的に生まれた器官ではない。もともと羽毛は恐竜時代の名残で、体温保持を目的に発達したとされている。鳥類がそれを翼に転用したのは、たまたま空を飛ぶ必要に駆られた時、そこに羽毛があったからである。それは適応と淘汰という現時点的な生存戦略に捻りを加える、生き物の歴史に由来する在り方である。
この偶然性というのは、科学による演繹的な説明において軽視され続けた領域だった。何故ならそれらの問いは、突き詰めると「どうしてそれはそうなのか」という存在論的な疑問に行き当たるからである。
「どうして鳥は翼を持ったのか?」
「恐竜はなぜ滅んだのか?」
「パンダの親指はなぜ六本あるのか」
「どうしてそれはそうなのか」
これらの問いに答えるには、アートや歴史と言った文系学問の視座が必要なのだ、と本書は語る。というのも、この偶然性というのは極めて人間中心的な考えだからである。そこにないものへと想いを馳せ、あるものをより明確にしていく。その意味においてアートは科学と相補的である。
著者の目的は、進化論の新論を捻出することでも批難することでもない。1つの事実として、サイエンティフィックな「適応と淘汰」への認識と、人間的な「理不尽への感受性」の両輪をもって接することが適切であると訴えるばかりである。
さてその主張は、私には些か極端に過ぎるように思えるが、果たしてどうだろう。科学とアートでベン図を作った時、進化論からあまねく空集合は消えるのだろうか? 何とも言えないところだが、かと言って他に第三の軸を導入できるかというと、それもなかなか思いつかない。つまるところこれは、科学と人間との対比なのである。本書はその両者の断絶を飛び越える、空を飛ぶ為の翼となり得るのである。