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【書評】「サンショウウオの四十九日」と肉体の永遠性について【朝比奈秋】

 

 世の中には、身体の一部が結合した状態で生まれてくる子どもがいる。私は彼らのことをシャム双生児という言葉で認識していたが、本書では結合双生児という語が宛がわれる。

 

 何でも、シャムというのは著名な結合双生児の出身地から取られた名称だそうで、近代的な視点から見ると、(そこに特別な意図はないにしても)医学用語に地名を含むというのは不適切であるのかもしれない。そういう訳で、この場でも本書に倣って「結合双生児」という語を用いようと思う。

 

 知ってはいても、結合双生児の知人がいる訳ではない。テレビのドキュメンタリーで、頭が繋がった子どもの映像を見掛けたというだけに過ぎない。彼女ら(そう、確かテレビに映っていたのも女の子だった。本書の主人公のように)は感覚を共有し、例え両者の間に敷居を作ったとしても、片方が見ているものをもう片方が認識することが出来た。私はその事実に人間の底知れなさを見ると共に、私自身の知られたくないあれこれが筒抜ける様を想像して、少々恐ろしい気持ちになったことを覚えている。

 

 本書は、そんな結合双生児の中でも、肉体を半分ずつ共有する二人の女性が主人公である。正中線を境に左右で異なる人体が結合し、一人分の肉体に二人分の意識を持つことになった主人公――これはそんな彼女らによる、二人称小説とも言うべき実験作である。

 

  • あらすじ

伯父が亡くなった。誕生後の身体の成長が遅く心配された伯父。その身体の中にはもう一人の胎児が育っていた。それが自分たち姉妹の父。体格も性格も正反対の二人だったが、お互いに心を通い合わせながら生きてきた。その片方が亡くなったという。そこで姉妹は考えた。自分たちの片方が死んだら、もう一方はどうなるのだろう。なにしろ、自分たちは同じ身体を生きているのだから――。

 

 

  • 書評

 この本で何よりも特異な点は、その語り口である。

 先にも書いた通り、この小説は二人分の意識がある主人公たちによって書かれている。二重人格との大きな違いは、そこに意識の入れ替わりがあるかどうかだろう。結合双生児として生まれた主人公たちには、当然そんなものはない。そういう意味では、本書はリアルタイムな共著と言い換えても良いのかもしれない。

 

 なにせ、話し手が片方からもう片方に、シームレスに移行するのである。複数の意識が混在している文章は、絶えず誰かの影を目の端に捉えながら、同時に自身の存在を問い続けている。そういう不安定さがこの本全体を包んでいる。

 それは逆説的に、物語がいかに肉体に依存しているかを示唆している。私がこの本を一読して抱いた感情がそれだった。

 

 珍しい出自の主人公たちであるが、ストーリーは決して派手ではない。作中は叔父の死と四十九日の描写に紙面が割かれ、ほとんど日常的な範囲を出ないものばかりである。

 

 そういう意味でこの小説は凡庸なものとして捉えられても仕方がないのかもしれないが、結合性双生児という二人の生い立ちがそれを阻むのである。二人の眼で見る普通は、当然ながら定型発達者の見るそれと同じものではない。それは二人分の意識が解釈する世界であり、同時に普段排斥される側の視点を内包しているのである。

 

 もしかしてそれは、医師でもあるという作者の声なき叫びだったのだろうか? ふとそんなことを考えた。私たちが生活の中であえて見ようとしていないもの、フィクションの世界においてさえ無意識にフィルタリングしているものを、まざまざと眼の前で見せつけられたような気持ちになった。

 

 障がい者、という言葉がさらっと出てくるところに、はっとする。この物語は、その言葉を人工的な優しさで包み隠すことはない。身体のアウトラインを丁寧に辿り、二人分の内臓を正確に描写する。すると段々、結合性双生児という枠組みが薄れていき、身体のパーツだけに焦点があっていく。感覚としてはゲシュタルト崩壊に近い。眼の前に差し出されるのは一つの肉体であると、そう改めて認識するのである。「サンショウウオの四十九日」はそういう意味で、自画像に近い性質を持っている。

 

 さて、それでは肝心のストーリーに関して、書き手の設定ばかりが先行した出落ちのような作品かと言うと、そうではない。本書の自己に関する記述と世俗的な描写のコントラストは、目が眩むほど鮮やかである。

 

 そこには「自分とは何か」という哲学的な問いと、「栓なきことにとらわれずに食っていかなければならない」という諦念のような感覚が共存している。励ましもなければ悟りもない。いや、後者に関してはそれらしいものがないでもないが、それを認識する当事者の視点には隔たりがあるように思えてならない。額縁の外から自分の人生を眺めているような、そういう隔たりである。

 

 そうしたシニカルな視点で主人公の足跡を辿っていくと、人という生き物は総体として凡庸であるというような気がしてくる。健常者も障害者も、結合双生児も、行き着く先は骨である。墓の中に収められてしまえば、もう誰が誰かの区別さえつかなくなるだろう。

 

 作中、主人公が土を口にするシーンがある。また、自分たちが骨になり、その骨が土に還される場面を夢想する。ここにもまた円環がある。二匹のサンショウウオは互いの尾を追ってぐるりと一回りする。そこに感じる幾ばくかの安らぎは、私たちの永遠によってもたらされるのかもしれない。