円城塔という作家に思いをはせるとき、真っ先に連想するのは「天才」の二文字である。
思えば、私が円城塔を知ることとなった切っ掛けは、伊藤計劃というSF作家にあった。「虐殺器官」、「ハーモニー」、その他いくつかの優れた作品と「屍者の帝国」という長編の冒頭部だけ書き残して夭折した作家の足跡を、高校時代の私は貪るようにして求めていた。
そんな私が、円城塔という作家に出会わない筈がない。円城塔は伊藤計劃と関連深い作家であり、何を隠そう「屍者の帝国」の絶筆を引き継いだのが彼だからである。とは言えその作風は、伊藤計劃とは真反対と言えるだろう。
私が初めて手に取った円城作品は「Self-Reference ENGINE」だった。それなりにSF作品を読み込んでいた私にとっても、それはぶっ飛んだ本だった。ここまで奇想天外なアイデアを、湯水のごとく浪費して良いものかと、さながらギャンブラーのドキュメンタリー映像を見たときのようにはらはらしたことを覚えている。
伊藤計劃は、どちらかと言えば一つのアイデアにディテールを盛り込み、世界観を構築する作家だった。テロへの対策が監視・管理の類となって日常を覆いつくす「虐殺器官」も、医療制度の発達が生命の存続を絶対とする礎となった「ハーモニー」も、根本にあるのはファンタジーの構成である。
しかし円城塔は違う。円城塔の作品群には根底にアイデアがあり、しかもそれは読者に伝わるぎりぎりのラインで(或いは伝わらないぎりぎりのラインで)披露され、即座に投機される。短編で浪費するなど考えられない着想が、その場限りのものとして使い捨てられるのである。さながら宇宙旅行の為にパージされるブースターの如しだ。
私が知る限りにおいて、そのスタンスは「道化師の蝶」で芥川賞を受賞した後も、今に至るまで変わっていないらしい。それが円城塔を天才と考える所以である。
そして天才が天才たる証左は、その全容が凡人には伝わらないというところにある。その文章を前にして、私のような人間が出来るのは精々分かっている部分を拾い上げることくらいである。そういう風にして、私はこの「ムーンシャイン」という短編を読み通した。それは一周回って詩的と言えなくもない。
- 粗筋
曾祖父の残した八つの■をめぐる物語「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」、〈ムーンシャイン予想〉を下敷きに繰り広げられる軽快な算術SF「ムーンシャイン」、生まれ変わりを教義の中心におく〈エルゴード教団〉の奇怪な歴史を描く「遍歴」など全四編。SFと純文学の世界で大きな注目を集める著者の短編集。
- 書評
総体として評価するにはあまりにも振り幅が大き過ぎるので、以下はそれぞれの簡易な覚書である。
のっけから円城節の炸裂である。八つの■を並べた曾祖父のメッセージは、生成可能な文字列の載積である。円周率が聖書を含むというのは、「その値が無限に続く乱数である」という前提が必要になるけれど、これはその無限の視覚化とも言うべき代物である。
内包される物語もこれまた珍妙で、プログラミング言語だったりパソコンの基礎知識だったり波動方程式だったり粒子と波の二重性だったりの概念をぽんぽんと投げ寄越しては立ち去っていく。ちなみに私のお気に入りは紐虫の話である。恐らくそれは、私が物理系の学部を卒業したという背景が関係しているのであろう。
「ムーンシャイン」
擬人化された素数を巡る物語である。双子素数などはぎりぎり理解できても、群論が幅を利かしてくると全く太刀打ちが出来ない。ムーンシャイン予想というものを初めて聞いたのだが、これは扱い得る何らかの整数上限を超越する物語だろうか? しかし作者曰く、単語を借用しただけとのことなので、これを真に受けるのも一つの危機を引き受けることになりそう。
「遍歴」
後書きにて、伊藤計劃の「屍者の帝国」に関する言及が見られる。そこから派生する形での、輪廻転生に対する数学的な考察といった内容。途中、ジョン・ロールズの提唱した「無知のヴェール」の概念が出てくる。所謂仏教的な輪廻転生の概念から一歩踏み出して、その過程や並び替えに焦点があてられる様は、これまでのSFにない新しいフェーズであると感じる。今作短編集で一番のお気に入りである。
「ローラのオリジナル」
これは昨今話題の生成AIに影響を受けた作品である。機械的に算出される画像の中に、自分の憧憬を差し入れながら、同時に自己同一性を問うていく。架空の罪と架空の罰という話は、グレッグ・イーガンの「宇宙消失」を思い出させた。
人が観測することにより波動関数が収束し、並行世界の多数の生命体が命を落とす「宇宙消失」――しかしこの「ローラのオリジナル」で描かれるローラの死は、正真正銘の架空の死である。そんな架空の死とそれを救おうとする誰かのことを夢想する過程で、自分自身の実証もまた疑わざるを得ない。自己への問いは、最後に読者へと投げ付けられる。
さて、以上がこれら短編のざっとした書評だが、如何なものだろう? 部分的には理解できても、分からない箇所が多かったというのが正直なところだ。
世の中には身の丈にあっていない小難しい話を好むやからがいて、そういうやからが大体多感な時期に岩波文庫の哲学書に手を出して撃沈する。イマヌエル・カントの『純粋理性批判』に手を出して――というよりも、手も足も出なかったのが、何を隠そう私である。しかしそこで得るものも、勿論あるのだ。円城塔の理不尽なまでの天才性を垣間見ることが出来るのが、本書「ムーンシャイン」である。
中秋の名月は過ぎてしまったが、こちらの月も見ものである。