羊を逃がすということ

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【書評】「愛するということ」、そして本当の自分を生きるということ【エーリッヒ・フロム】

 愛というのは、極めて扱い難い観念である。

 その原因は、主にハリウッドとディズニーの所為であると、私は思っている。そこから派生する形で巷に広がった様々なフィクションも、残念ながらその傾向に拍車をかけたと言わざるを得ない。

 

 そうは言っても、私はハリウッドやディズニーに見られるような、所謂一大スペクタクルとしての愛を否定したい訳ではない。矢張り誰もが一度は大恋愛には憧れるものである。ただ世の中にはそうした愛しかない訳ではないし、その事実を知ることには一定の価値があると思う。

 

 愛の本質というものに思いを馳せるとき、私が連想するのは小熊秀雄の詩である(ちなみに私は長らくこの詩の作者を小林秀雄と勘違いしていた。何とも恥ずかしい限りだ)。

 

いまでも愛とはすべてのものが

小羊のやうに

寄り添ふことではないのかと思ってゐる

 

 エーリッヒ・フロムの「愛するということ」は、そうした愛に関する諸々の想念を、精神医学或いは哲学の観点から解き明かした、言わずと知れた名著である。新訳・新装版ということであったが、私にとっては初めてのフロムだった。何より表紙がシンプルで惹かれてしまった。そういう訳で、遅ればせながらフロムを読むに至ったのである。

 

  • 粗筋

愛は技術であり、学ぶことができる――
私たち現代人は、愛に渇えつつも、現実にはエネルギーの大半を、
成功、威信、金、権力といった目標のために費やし、
愛する技術を学ぼうとはしない。

愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、
愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である。

 

  • 書評

 愛というものは、ともすれば男女を適当に配置しておけば、いわゆる自然発生的にそこに生ずるように思われる。これはあながち間違いではないだろう。恋愛ドラマの最終回で、失恋したヒロインと主人公の友だちが、さながらババ抜きの如く場当たり的にペアを組まされてぽいと投げ捨てられるのは、案外リアリティのある展開なのかもしれない。

 

 とは言え愛というものは、残念なことにミントのように気付いたら増殖しているというような代物ではないらしい。先に挙げた例で言うなら、仮にそこに恋愛の萌芽(のようなもの)があったとしても、それにきちんと薪をくべなければ、愛は萎んで枯れるか全く違った何かになり果ててしまうだろう。それがドラマの最終回なら取り敢えず「めでたしめでたし」で良いが、残念ながら人生はそこからもだらだらと続くのだ。

 だとしたら、果たして愛の真髄とは何なのだろうか。愛に纏わるフロムの言葉は誠実である。

 

 結論から言えば、愛とは結合のことである。人は皆孤独な生き物で、愛を用いて他者と繋がろうとする。しかしその結合にはその実二種類あって、愛の他のもう一つは共棲的結合である。共棲的な結合は、今風に言えば依存関係であろうか。それがあまり良い状態ではないというのは、改めて明言する必要もないだろう。

 対してフロムは愛の在り方として、「自分の全体性と個性を保ったままでの結合」を説く。独立した個々人が、相手を知ろうと能動的に働きかける活動こそが愛なのだ。

 

 この愛は、恋愛関係のみに限定される訳ではない。親子の愛や友愛、果ては自己愛や宗教的な愛にまで、広く適応される。

 

 印象的なのは、フロムによる神への愛についての記述である。人は恩寵を求めて神に縋るが、これは子どものような在り方だとフロムは言う。

 「善行による神の恩寵」を強く拒絶したのはルターだった。神は絶対の存在であり、人間はその運命を前に謙虚であるべきだと、ルターは言った。金で免罪符を買うことが許されないのと同様、善行で神からの慈悲を強請る行為もまた許されてはならないのだと(この辺りの内容に関しては、参考文献としてマイケル・サンデルの「実力も運のうち」を参照されたい。宗教と資本主義というフロムの取り合わせは、どこか宗教と能力主義について述べたサンデルの著作と通ずる部分がある)。

 

 

 それではフロムの言う神とはどういうものなのか。無条件で子どもを愛する母親的なものなのか、それとも優れた息子を褒める厳格な父なのか。フロム曰く、更にこの神の概念は進化する。引き合いに出されるのは出エジプト記におけるモーゼへの啓示である。

 神はモーゼに、「私は『私はある』という者だ」と告げる。こうして神は善や悪の枠組みを超えた、潜在的な現象へと昇華されるのである。これは概念としては大乗仏教における三身(の中の法身)に近いのではないだろうか。悟りを開いた仏陀は宇宙そのものと一体化するのである。フロムの文章には、どうにも東洋哲学の香りがする(こちらは鈴木大拙さんの「大乗仏教概論」がイメージし易いのではないか)。

 

 

 さて、有難いことに、本書には愛の理論だけでなくその実践に関しての記述も豊富に含まれている。多くの実例を紐解きながら、フロムは愛する為には謙虚さと客観性と理性を育まなければならないという。そして最後に自分を信じることで、初めて愛は成立するのだと。

 この信念は、社会の大多数が盲目的に身を寄せている真実ではなく、自分の真から信ずることの出来るものが対象である。自分の経験や思考がその価値体系を構築していくのだ。それを読み解くのはきっと簡単なことではないのだろう。現代社会を生きる我々は、暴力的なまでに「普通」の観念を植え付けられているのだから。例えばそれは、ハリウッドが語る大恋愛であり、ディズニーに感じる癒しである。

 

 そう言ったものを丁寧に取り除くというのは、つまり本当の自分に耳を澄ますということである。そうして確固たる自分を築き上げたとき、この話の展開は冒頭に戻るのである。「自分の全体性と個性を保ったままでの結合」、それこそが愛するということなのだろう。