もうかれこれ十年以上前になるが、私はファンタジー小説というものを読み漁っていた。
始まりは確か、イ・ヨンドの「ドラゴンラージャ」だった。ドラゴンあり、魔法あり、お喋りな魔剣や女盗賊や心優しいエルフあり、ファンタジーの魅力をみっちりと詰め込んだ冒険譚である。
そんなファンタジー世界にどっぷりと嵌ってしまった私は、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」やラルフ・イーザウの「ネシャン・サーガ」、中学生男子の誰もが通る「ダレン・シャン」、ジョナサン・ストラウドの「バーティミアス」なんかも読んだ。ちなみに、ファンタジーと言えば真っ先に名前が挙がるトールキンの「指輪物語」は二巻ほどでストップしている。映画で見てしまったから、満足してしまったのかもしれない。
ファンタジーは奥深い作品である。近頃は所謂「なろう系」の躍進もあって、ファンタジーも定型化された取っ掛かり易いものとなりつつあるが、本来は異世界をゼロから積み上げるという神経質な作業が求められる。
宗教や風俗、歴史、言語や思想、何から何まで我々の暮らす世の中とは違う筈なのだ。それを矛盾なく成立させるというのは、大袈裟な言い方をすれば神の真似事に等しい。
「レーエンデ物語」は、多崎礼さんという方の書いた、フルスイング直球勝負のファンタジーである。中世ヨーロッパ風の世界観であるが、魔法は存在しない。エルフやドワーフといった想像上の人族も出てこない(少なくとも一巻現在では)。躍動するのは飽くまで普通の人間であり、銀呪病と呼ばれる特殊な病気や、時化と呼ばれる神秘的で恐ろしい現象は起こるものの、そこに広がるのはまごうことなき社会である。
そう、この世界では異世界という言い訳は通用しない。これは物語という小窓で覗くもう一つの歴史であり、私たちはそこに生きる人々を見て心震わせ、勇気を奮う活力を得る。本を読み終えたとき、私は本当に存在した人々の活躍に触れた時のように、胸を躍らせずにはいられなかった。
いや、錯覚ではない。そこには確かに「レーエンデ」で暮らす人々がいたのである。ファンタジー世界を創造するのではない。ファンタジーは世界を創造するのだから。
- 粗筋
聖イジョルニ帝国フェデル城。家に縛られてきた貴族の娘・ユリアは、英雄の父と旅に出る。呪われた地・レーエンデで出会ったのは、琥珀の瞳を持つ寡黙な射手・トリスタンだった。空を舞う泡虫、乳白色に天へ伸びる古代樹、湖に建つ孤島城。その数々に魅了されたユリアは、はじめての友達、はじめての仕事、はじめての恋を経て、やがてレーエンデ全土の騒乱に巻き込まれていく。
- 書評
ファンタジーに必要なのは、まずもって世界への愛である。
世の中には、実に様々なファンタジーがある。小説に限らず、漫画やアニメーションの世界まで幅を広げてしまえば、その数は計り知れない。
このファンタジーの母数の多さは、良くも悪くもフィクションとしての許容度の高さが影響しているのではないだろうか? ちょっと違和感のある設定でも、「架空の世界だから……」と一言添えればそれで弁明が済んでしまう。難解な世界観を構築するよりも、「聡明なエルフと短気なドワーフがいて……」というように定番な設定に乗っかった方がキャラクターの肉付けも容易い。そうして氾濫したのが、何処かで見たことのあるファンタジーの一群である。
尤も断っておくと、それが必ずしも悪い訳ではない。手軽な冒険活劇を求めるなら、それで十分需要は満たせるだろうし、何より私の直感では、そういう安直なものはいずれ消え去る運命である。
どちらかといえば、昨今は異世界でスローライフを送ったり、モンスター側に転生したりと、テンプレートを逆手にとって新規性を開拓する作風の方が印象強い。それは今あるファンタジー小説の延長ではなく、ひとつのアンチテーゼとして捉えるべきではないだろうか? そんな風に考えてしまう。
そんな中、この「レーエンデ国物語」は逃げも隠れもしないファンタジーである。異世界転生は、ある意味でフィクションにとっての言い訳として成立する。虚構の中で不可解な出来事が発生しても、そこに現実の視点を含めることで、「異世界って大変なところだ!」と読者に寄り添った振りが出来るからである。
しかしこの「レーエンデ」にそんな言い逃れは存在しない。主人公たちはもともとこの世界の住人で、この世界が成立した歴史の上に生まれ、時代の波に流されている。彼らにとってファンタジーは、ただそこにある現実なのだ。
上手いのが、主人公を城で暮らす姫様とすることで、見知らぬ土地「レーエンデ」の光景を、新鮮な視点から描写することが可能になった点である。もし主人公がレーエンデに暮らす住人だったら、そこでの風景に感動を覚えることもなかっただろう。しかし世間知らずの姫様を中心に捉えることで、ファンタジーの世界に対する鮮やかな驚きを保持したまま、物語は進行する。
しかもその物語も、極めて現実的な交易路の建設が中心となっている。建築動機も納得感があり、それにまつわる行政的な遣り取りも非常にリアリティがある。他国との情勢や、垣間見える宗教的価値観、民族の分断された様子が、堪らなく現実に肉薄する。
私は、こういうちらっと見せられる設定に弱いのだ。物語の世界は小さな覗き窓であり、その向こう側にフィクションの世界が大きく広がるのを感じられる。緻密に練られた設定と、それを大胆に「見せない」表現に、私は強く魅力を覚える。
さて、この小説で唯一非現実的な要素と言えるのは、銀呪病やその原因となる幻の海である。これらの描写は神々しく、美しさと恐ろしさを同時に秘めている。ファンタジー世界の中ですら幻想的な風景は、私たちを奇妙な錯覚に陥らせる。そもそもファンタジーなのだから、目に映る全てが奇妙であって然るべきではないか? 違うのだ。
ひとたびページを捲れば、私たちはユリアと共にレーエンデを旅する住人になってしまう。そして私たちは、ユリアと共にレーエンデに恋する。読み終える頃には、乳白色の古代樹に懐かしささえ感じることだろう。