F・スコット・フィッツジェラルドは失われた世代を代表する黄金の作家だった。
彼の代表作である「グレート・ギャツビー」は世代を超えて愛され、何度も映画化されている。その名はある種のダンディズムの象徴とされ、日本では男性整髪料の名として広く知られている。
ギャツビーは哀れなほど愛に生きた男だった。その絢爛豪華な日々と、それとは対照的な寂しい最期を、私はフィッツジェラルド本人に重ねざるを得ない(或いはフィッツジェラルドの死を、ギャツビーに重ねると言うべきか)。
フィッツジェラルドの好んだ死というのは、どうしようもなく致命的で、自己破壊的で、ロマンチックだった。どの本で読んだのだったか、彼を捉えた最期のイメージとして、「パーティの開かれる絢爛な豪華客船から、人知れず海にぽちゃんと落ちる」というものがあった。実際のフィッツジェラルドはハリウッドのアパートメントで亡くなったらしい。死因は心臓発作だった。
ただ問題は、亡くなったアパートメントが愛人のものだったという点である。不貞によりカトリック教会での葬儀を拒絶されたフィッツジェラルドは、プロテスタント式の簡素で短い葬儀の末、家族の眠る墓地ではなく隣接した墓地に埋葬されることとなった。あまり詳しく書いてしまうと途方もない文量になってしまうので、ここでは飽くまでギャツビー氏に負けず劣らず侘しいものだったと書くに留めたいと思う(その葬儀の場面は、村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」に詳しい)。
とまあ、長々とフィッツジェラルドについて書いてみたものの、今度の記事はアメリカ文学ではなく日本のエッセイである。宮崎智之さんの「平熱のまま、この世界に熱狂したい」では、それぞれのエッセイで関連のある書物が紐解かれる。その一冊として、他ならぬ「グレート・ギャツビー」が含まれていたのである。
ギャツビーは強さに憧れたのかもしれないが、その本質は弱い人だった。フィッツジェラルドもそうだろう。そして本書「平熱のまま……」は、積極的に弱さを取り込んだ、弱い視点からのエッセイである。
- 粗筋
アルコール依存症、離婚を経て、取り組んだ断酒。自分の弱さを無視して「何者か」になろうとするより、生活を見つめなおし、トルストイとフィッシュマンズなどに打ちのめされながらも、すでにあるものを感じ取るほうが人生を豊かにできると確信する。様々な文学作品を引きながら、日常の風景と感情の機微を鮮やかに言葉にする。新たに3篇を加え増補新版として文庫化。
- 書評
エッセイが好きだ。肩肘張らず読むことが出来て、含蓄があり、生活の新たな一面を切り開いてくれる、そういうエッセイが好ましい。とは言え、エッセイというのは文学の世界においても、俗っぽい位置に置かれているのではないだろうか?
些か流行は過ぎたものの、現代はブログで素人が文章を書ける時代である(現に私がそうしている)。小説ほど想像力を酷使せず、批評ほど知識も必要としない、そんな侮りがエッセイにはあるようだ。
そんな人ほど、是非ともこの「平熱のまま、この世界に熱狂したい」を読んでほしい。そして痛感してほしい、エッセイというのが如何に文学的技量を尽くした結晶であるべきか。
まずもって我々は、大抵誰もが平均的な人生を生きている。誰かと共感を得る為には、その「普通」の観念を捨て去ってはならない。しかしあまりにも普通過ぎると、それは改めて読む価値のないものとなってしまう。
求められるのは、眼の前の普通をいかように解釈し、切り取るか。その為には知識や経験に裏打ちされた視点が不可欠であるし、読み手を飽きさせない息の長さが必要になる。
本書はその両者をきちんと兼ね備えた本と言って、まず間違いないだろう。勿論、それはエッセイとしての前提条件というべきもので、本書独自の魅力は改めてキャンバスに厚みを加えている。例えばそれは「細マッチョ」の記述に見られるユーモアであったり、エッセイそれぞれに引かれる書物の数々であったりである。
だが何にも増してこの本に通底しているのは、弱さに関する視点だろう。
謙虚というのとは違う。謙虚は、力に溢れる者が謙遜しているというだけで、その実エゴイスティックである。それに対して弱さはただの弱さでしかない。ここには挫折による傷跡と、その傷跡から静かに歩みを始めた何者かの息遣いを感じることが出来る。
それは世間的に見て大きな一歩と言えるようなものではないのかもしれない。そして恐らく、その傷は完全に癒えるというものでもないのだろう。強いて言うなら、受容することが出来たというべきか。その文章はさらりと咽喉越しが良いのにも関わらず、描かれるものは濃密である。
最後になるが、ギャツビーの中で私が愛する一説を引用したい。それはフィッツジェラルドの墓に刻まれた一説でもある。
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。
流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
それは弱き者が持つ――いや、人類が普遍的に持つ、希望の力である。平熱のまま、我々は櫂を握るのである。