羊を逃がすということ

あなたの為の本が、きっと見付かる

【書評】ウォールデン 森の生活|人類の目的に対する問い掛け【ヘンリー・D・ソロー】

 かつて友人が、ミニマリズムに目覚めたことがある。

 デヴィッド・フィンチャーの「ファイト・クラブ」が好きで、資本主義に対する反骨精神を燃やしていた友人だった。彼は部屋の中の家具の全てを捨て去り、身に着ける衣服も最小限に絞ったと言った。そして私にミニマリズムの魅力を説いてみせたのだ。

 

 多少、その高揚感に水を差したくなった感も否めない。だがそれ以上に、私はただ思ったままを伝えた。「ミニマリストは資本主義の癌である」。

 以来、その友人は事あるごとにその言葉を引き合いに出し、あてこするようになってしまった(勿論、半ば冗談として)。危うく友人を一人失ってしまうところだった。

 

 現在の私も変わらず資本主義国家の一員として生活しているけれど、以前ほど積極的に肯定しようとう気にはならない。それは近年になって、割と資本主義的限界に言及した著作に触れる機会が多くなってきたからである。その代表格は斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』だろう。

 

 

 アダム・スミスに端を発する資本主義は、分配するパイが拡大し続ける限り有効である。お金を稼ぎ、そのお金を投資に回すことで、そこで働く従業員にも富が分配される。だがあまりにも大きなパイは、様々な弊害を引き連れてしまう。

 

 例えばそれは、昨今の気候変動である。歴史上、気候変動は様々な文明の崩壊を招いたが、欲望に駆り立てられる資本主義にブレーキは存在しない。資本主義的影響下にあるグリーン・ニューディールなどは、科学技術の発展が環境問題をも解決すると楽観するが(一例を挙げれば、火力発電に対する太陽光発電の発展などがそれに当たる)、しかしそれも根本的な解決にはならない。何故なら太陽電池を開発する為にはレアメタルが必要で、今度は化石燃料ではなくレアメタルに対する依存と枯渇問題を引き起こすからである。

 

 肝要なのは、資本主義がパイの拡大に依存する限り、真の意味での持続可能社会などというものは成立しないという点だ。『人新世の……』はその処方箋として脱成長モデルを提起する。

 

 尤も世の中には楽観主義を肯定的に受け止めている方もいて、例えばユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」などを紐解くと、太陽のエネルギーをまるごと頂戴するダイソン球などのアイデアを紹介しながら、地上にはまだまだ生かし切れていないエネルギーが存在することを示す。

 

 

 ある意味これは膨張宇宙論に似ていて、そこで繰り広げられるのはいたちごっこである。人間如きでは組みつくせないエネルギーが世の中には満ちていて、物理的な死が訪れない限り(つまり彗星がぶつかる、年老いた太陽にこんがりと焼かれる等)人間は成長し続けていけるかもしれない。

 

 さて、実際の結末は神のみぞ知るというところなのだろうが、ここでソローの「森の生活」を読むことには、きっと意義があるだろう。物質主義に中指を立て、ウォールデン湖のほとりで自給自足生活を送ったソローの生活には、真に必要なものへの含蓄が見え隠れする。

 そしてそこには、何を目指して生きるべきかという示唆も垣間見えるのである。

 

  • 粗筋

物と金にまみれた人間社会を拒み、マサチューセッツ州ウォールデン湖のほとりで約2年間の自給自足生活を送ったソロー。自然や動物たちの営みに目を凝らし、自らを取り巻く経済、住まい、読書、多様な隣人について、時に風刺を交えて描写しながら、人間とはいかなるべきかを立体的に思索し続けた。物質社会への徹底した反骨精神と、孤独を恐れないその生きざまが、新訳により鮮烈に蘇る。

 

  • 書評

 名著「ウォールデン 森の生活」の新訳である。「森の生活」自体は、以前「デジタル・ミニマリスト」という本を読んだ時から知っていたが、読むのは初めてである。

 

 

 正直なところ、読み易いものではない。冒頭の章立てがまず「経済」である。自給自足という生活を通じながら、具体的な数字と共に現代社会の在り方を批判するソローの独白じみた筆致に、脱落する人も多いのではないだろうか?

 しかも中盤から後半にかけては森の詩的・哲学的描写に紙面が割かれる。それはそれで取っつきにくいものなのだ。前半と後半はまるで異なる問題を扱っているかのようだが、きっとソローにとってはそうではないのだろう。ソローにしてみれば、実生活と思索の一致が重要だったのである。「仕事は仕事、プライベートは余暇で」、などというのは偽物の人生である。

 

 特筆すべき点は、ソローの生き方が半ば狩猟採集民族的であるというところであろう。

 私が連想したのは、シャレド・ダイヤモンドと呼ばれる進化生物学者の言葉だった。ダイヤモンド氏曰く、「農耕民族への移行が人類にとってプラスだったかは未だに結論が出ていない」とのことである。

 

 

 ウォールデン湖のほとりに暮らすソローは、確かに小屋に定住し、一見農耕民族的な暮らしをしてはいるけれど、一読する限り作物の収集効率を重視するというよりかは森での自給自足の延長という要素が強いようである。或いは、初期農耕民族的とでも言うべきか。

 私が言いたいのは、その生活が基本的に自給自足に依拠するものであり、所謂農耕が始まってからの分業や格差とは無縁のライフスタイルであるということである。自分の人生から不要なものを取り払っていき、余った膨大な時間をソローは静かに思索へと捧げている。

 

 特に今回、私が楽しみにしていたのは、何より冒頭の「経済」の章だった。過労死が公用語ともなりつつある現代日本で、仕事と人類の関係性は今一度見直さなければならない観念である。

 

 現在の私たちは、もう自分でも必要な以上に何かを生み出そうと躍起になっているのかもしれない。これ以上増えようのないパイを、強引に伸ばそうと無理をしているのではないか。そんなことを考えると、いっそソローのようにいま日本に生きる大半がぱっと仕事を放り出して、それぞれで自給自足の生活をしていく方が良いのではないかという気さえしてくる。

 

 しかし、そんな妄想は上手くいかないだろう。アフリカで誕生した人類は、言わば侵略的外来種として全世界を席捲した。実りの豊かな土地もあれば、貧しい土地もあり、その母数が増えすぎている以上良質な縄張りを確保するのは必然である。

 農耕民族への移行は、このように自然発生的に生じたのではないだろうか? 人類は道すがら果実をもいで生きていくには、数が増えすぎたのである。マサチューセッツの住人がみな自給自足を始めたのであれば、恐らくソローももっと貧しい土地に追い遣られていたことだろう。

 

 人類の増殖は、生物学的本能に従ったものだった。やがてそれは労働単位として国家的な要請にすげ代わり、我々は資本主義的な発展の名のもとにそれを肯定し続けてきた。だがここに来て、世界は異常気象という名の副作用に見舞われている。それは闇雲に進み続けてきた人類の嵌った一つの袋小路である。

 

 そして問題は、ソローへと立ち返るのである。そもそも私たちは当然の如く発展を目指して歩み続けてきたが、それを幸福と呼んでいいのだろうか? 地球の覇者となった人類は、ただその数を増やすだけでなく、人類の目的を問う段階に来たのではないか。私にはそんな気がしてならないのである。

 

 念の為に断っておくと、必ずしもそれがソローの言うような自然崇拝とでもいうべきものだとは思わない。

 しかし少なくとも、「森の生活」はそこに社会の欺瞞を明らかにしているように思える。何故生きるのか、それは原初の問いである。答えを出す一助として、一度はこの湖畔の小屋を訪れるべきだろう。