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【書評】成瀬は天下を取りにいく|正直なまま歩き出す勇気【宮島未奈】

 

 滋賀には一度行ったことがある。

 私の連れ合いの誕生日で、魚釣りに興味があるという彼女と一緒に釣り体験に足を運んだのだ。企画していたのは真言宗のお寺で、お坊さんと一緒に魚を釣るというなんだか罰当たりな気がしないでもない経験をした。ちなみに魚は鱒だった。シーズン外れに行った所為か小さかったが、餌への喰いつきがよく、私たちはそれぞれ自分で釣った獲物を食べることが出来た。

 

 関西圏に暮らす私にとって、滋賀は「何とも言えない土地」である。観光なら大阪や京都があるし、少しツウなら奈良に行くことだろう。ぱっと浮かぶランドマークは琵琶湖と彦根城くらいで、それ以外の印象は湖西線を取り巻く霧のような秘密のベールに包み込まれている。

 

 ……などと言ったら滋賀県民の方々から石を投げられそうであるが、当の滋賀県民の友人に魅力を尋ねたところ、「何もないねん」と笑われてしまった。その友人は大学進学で大阪まで出て来たらしいが、滋賀に居た当時は大阪と名のつく場所には雨後の竹の子のようにビルが生えていると思っていたという。大学の所在地が田舎だったので、大阪にも自然があったのかと驚いていた。

 

 そんな滋賀が舞台の、青春小説である。

 ご当地小説であるが、変に背伸びしたところがない。何せ冒頭が、主人公の「西武に夏を捧げる」宣言から始まるのである。私はてっきり西武ライオンズのことだと思っていたが(確かにその要素もあるのだが)、西武とはずばり西武大津店である。そしてこの物語において、西武大津店は中心的なモティーフであり続けるのである。

 

 それは誰もが持つ故郷の一角だ。私にとって近所の本屋とレンタルDVD屋がそうであったように、成瀬の物語はそこから始まるのである。

 

  • 粗筋

中2の夏休みの始まりに、幼馴染の成瀬がまた変なことを言いだした。コロナ禍、閉店を控える西武大津店に毎日通い、中継に映るというのだが……。さらにはM-1に挑み、実験のため丸坊主にし、二百歳まで生きると堂々宣言。今日も全力で我が道を突き進む成瀬から、誰もが目を離せない! 話題沸騰、圧巻のデビュー作。

 

  • 書評

 粗筋を読んで、果たして成瀬はどれ程の変人なのかと思った。確かに、成瀬は変人である。しかし好感が持てるのは、成瀬が「変人に見られたい変人」ではなく、「至って当たり前のことをしているだけの変人」という点である。

 

 変わり者というのは、ある種特別な存在である。変わり者であるという自覚も勿論そうだし、自分が変わり者であるという劣等感でさえひとつの肩書きとして機能する。だが成瀬は違う。彼女は恐らく自分が変わり者だと思っていない。ましてやそんな自分に卑屈になることもないのだろう。ただ、己の自然体に生きて来た結果がこれなのだ。この小説を一読して感じたのは、主人公・成瀬という人物の正直さである。

 

 正直であるというのは難しい。人間は社会的な生き物で、程度の差こそあれ相手の顔色を窺ったり、同調圧力を鋭敏に肌で感じるものだからだ。それはこの作者も知り尽くしているのだろう――というのは、成瀬の脇を固める人々を見れば一目瞭然である。

 成瀬の行動を面白がったり、嫉妬したり、非難したり、遠巻きに眺めたり……そして成瀬自身の眼から見れば、自分の周りにいる人々もまた、それぞれに個性を持った特別な人々なのである。どちらが正しいとか間違っているというのではない。その不完全性を愛するというのが、この小説の最も魅力的な部分なのかもしれない。

 

 例えば、である。成瀬は成績優秀である。大学は京大を考えているという。自分の好奇心に敏感にアンテナを張り、それを極めるモチベーションを抱くことが出来る。

 だが同時に、駄目な部分もある。漫才や髪を伸ばす実験なども途中で中断してしまい、最後までやり切ることが出来ない。どこか抜けているのだ。それを指摘され、成瀬が狼狽えるシーンがある。しかし私からすれば、彼女は十分に立派である。少なくとも私は、頭髪の伸びるスピードを知りたくて丸坊主にする度胸など持ち合わせていない。周囲の成瀬に対する期待が高過ぎるが故に、そう言った少々可哀想な目にあってしまうのかもしれない。

 

 要するに何が言いたいかというと、成瀬という人物は変わっていても特別な人物ではないということだ。彼女はかつて私たちの教室にいた変わり者の誰かのように振る舞い、誰かのように暮らす。滋賀という場所の持つ雰囲気も相俟ってか、私は成瀬という人物に懐かしさのようなものを感じるのだった。あれほどパワフルで魅力的なクラスメイトなど、これまでいたことがなかったのに、である。

 

 それはきっと、成瀬という存在の何パーセントかが、私と重なるからだろう。断っておくが、自分が変わっているなどと言うつもりはない。私はごく普通の、どこにでもいる面白味のない存在である。ただ私が押し隠している正直な自分、本当の自分を、成瀬の中に感じることが出来るのである。きっと作中の登場人物も、或いは読者も、成瀬のそういうところに惹かれるのではないだろうか?

 

 さて、このシリーズは最近続編も出たようである。「膳所から世界へ!」と豪語する成瀬たちが、次回作でどんな景色を見せてくれるのか、見ものである。