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【書評】すべての月、すべての年|時代を超えて愛すべき隣人【ルシア・ベルリン】

 

 私にとって初めてのルシア・ベルリンは、数年前に読んだ「掃除婦のための手引書」だった。よく言えば簡素な、悪く言えば味気ないタイトルに惹かれた。短編集で、そのほとんどが一人称で書かれたものだった。

 

 ルシア・ベルリンは明らかに生活を切り貼りしてものを書く作家である。作り話を書くと、どしても説教臭くなったり哲学めいた思索を披露したり、とかく胡散臭い代物になりがちだけれど、彼女の作品はそうではない。

 

 例えるならば、それはこんな具合である。本を開くと、突然ルシア・ベルリンの世界に放り込まれる。それは薄汚いキッチンの端であったり、病院の受付であったり、荒れ果てた教室だったりする。

 そこでけたたましい砂煙に巻き込まれ、もみくちゃにされるうちに、トラックの排気音と共に物語はどこかへと過ぎ去ってしまう。要するに翻弄されるのだ。過ぎ去った後で、一体あの経験にはどんな意味があったのかと考え込んでしまう。それが「掃除婦のための手引書」を読んだ感想だった。

 

 本作は、そんなルシア・ベルリンの二冊目の短編集である。文庫化されたばかりの作品で、ミーハーな私は帯の『NYタイムズ紙が選ぶ「21世紀の100冊」』という文句に惹かれて購入した。その大半は一人称の私小説的な内容で、そこに含まれる生活の臭いは、決して穏やかとは言い難い。むしろそれは悪辣で、黴臭く、吐き気を催す臭いである。そしてそれは、生き物が発する呼気であることに疑いようがない。

 

  • 粗筋

中学でスペイン語を教える新米女性教師が、聡明な不良少年のティムにとことん振り回される(「エル・ティム」)。夫を失った傷を癒すために訪れたメキシコの小さな漁村で、女がダイビングを通じて新たな自分と出会う(「すべての月、すべての年」)。世界中で驚きと喜びをもって迎えられた、至高の短編集。

 

  • 書評

 素直な文章を書くというのは、存外難しいことである。

 素人の私がこんなことを言うのも厚かましい話だが、そんな私でもブログで記事を上げていれば、過去の文章に「うわあ、気取った物言いだなあ」と思うことはしょっちゅうである。そうした部分を徹底して洗い出し、素直な文章を書くのが、やはりプロなのだろう。しかしここに二つ目の罠がある。

 

 それは、徹底した謙虚さが露悪癖となることである。

 慎ましやかに自分のことを語ると、醜さや弱さを直視せざるを得なくなる。それを明け透けに解き放つとき、その文章は非常に惨めったらしいものにならざるを得ないのだ。きっとそれはルシア・ベルリンも理解し過ぎるくらいしているところで、例えば「視点」という短編には次のような文章がある。

 

もしもチェーホフの「ふさぎの虫」が一人称で書かれていたとしたら、どうだろう。老人が読者に向かって、ついさいきん息子が死んだと語りだす。読み手はとまどい、辟易し、退屈もするだろう。

(中略)たぶん、わたしたちはみんな心がとても弱いのだ。

 

「視点」は冒頭で三人称の効用を説くが、その物語の終わりは一人称的である。残念ながら、ルシア・ベルリンは彼女が否定した一人称の落とし穴に嵌っているのだ(無論、それは自覚的にだろうが)。そしてそれこそが、ルシア・ベルリンの魅力ということが出来るだろう。

 

 何故なら、ルシア・ベルリンは徹頭徹尾「心の弱さ」に寄り添った作家だった。そしてそれが、彼女自身の言葉と裏腹に「とまどい、辟易し、退屈もする」代物とならなかったのは、そこに導入されたある種のシニカルさのお陰である。

 

 無関心、というのとは少し異なる。ルシア・ベルリンの作品には、痛みに対して半歩引くような距離感がある。例えばその作品には暴力的な場面や貧困が頻繁に現れるが、そこで書かれるのは「殴られた」だの「お金がなかった」だのその程度である。まるで痛覚を失った肉塊のように、自身の傷をさらりと描写する。

 

 でも時々、ほんの一瞬気が緩んだタイミングで、彼女は痛みを告白する。それこそが、ルシア・ベルリンの作品が愛される理由だろう。その痛切に心動かされるのである。それは決して露悪癖などではなく、言わば息継ぎである。どうしようもない現実に対して、長く泳ぐための刹那的な息継ぎ。私にはそのように感じられてならない。

 

 さて、ルシア・ベルリンは自身の体験を切り貼りするタイプの作家と書いたが、決してそれはストーリー・テラーとしての技量の低さを言うのではない。それは「メリーナ」や「友人」に見られる完璧な構成が保証するところである。

 

 また、先に挙げたシニカルな視点を、この短編集では「笑ってみせてよ」や「ミヒート」の効果的な視点切り替えに見ることが出来る。それはルシア・ベルリンが一人称小説の中で行っていた技法の言わば意識化で、「傷口への距離感」を「他者の視点」で代弁させることで、その惨めさの自己撞着性に言及しているのである。

 

 それらがほとんど勢いで書かれたような、隣人の日記のような調子で書かれているのだから恐れ入る。私はその断片から、ルシア・ベルリンという人物の生き方に飛び込むのである。或いは翻弄されるのである。恐らくは、彼女自身がその人生で翻弄されてきたように。

 

 

サイン本でした!