自慢ではないが、私はミーハーな人間である。
この時期にハン・ガンさんの作品を読むというのは、当然ながらノーベル賞受賞の報せがあったからであり、まんまとそれに乗せられたのだ。
正直なところ、私はあまり韓国文学というものに明るくない。というよりも、日本を除いたアジア圏の近代文学というものに疎い。まともに読んだことがあるのは、莫言さんの「赤い高粱」くらいのもので、それもノーベル文学賞の受賞が切っ掛けだった。ミーハーとしての面目躍如というか、俗物であることへの一貫性は、最早誇らしいくらいである。そんな訳で、この「すべての、白いものたちの」は、私にとって初めての韓国文学である。
ちなみにであるが、「すべての、白いものたちの」というタイトルは、原題では「白い」を意味する一文字のハングルが宛がわれる。ただしこの場合の「白い」は形容詞の連体活用形であり、後ろに名詞が伴って初めてその意味を完結する。
「白いものたち『の』」というタイトルは、読者がその後に各々の名詞を接続することを想定しており、更にそこに「すべての」を含むことで、修飾する対象を無制限に開放している。翻訳者である斎藤真理子さんの緻密な解釈が伺える。
読み終えた後、私にとっての「白いもの」とは何かを考えた。私が連想したのは「米」だった。これはそういう小説である。
- あらすじ
おくるみ、うぶぎ、しお、ゆき、こおり、つき、こめ……。「白いもの」の目録を書きとめ紡がれた六十五の物語。生後すぐ亡くなった姉をめぐり、ホロコースト後に再建されたワルシャワの街と、朝鮮半島の記憶が交差する、儚くも偉大な命の鎮魂と恢復への祈り。ノーベル文学賞作家による奇跡的傑作。
- 書評
宮本輝氏の小説に「泥の河」というものがある。その小説の中で、銀子と呼ばれる貧乏な女の子が、米櫃の中に手を入れるシーンが印象的だった。お米に手を差し入れると温かいのだと、その女の子が嬉しそうに言うのである。
「すべての、白いものたちの」の冒頭は独特である。まず作者が、「白いもの」について書こうと心に決め、その目録を作るところから話が始まる。読み終えた後、改めてそのページを振り返り、私は「泥の河」の場面を思い出した。それはきっと、並べられた白いものの大半が、日常的に眼にするものばかりだったからだろう。そこには生活の温もりが含まれている。例えばそれは、米櫃に手を入れた時に感じる温みである。
「すべての、白いものたちの」の筆致は、短編小説というよりも詩的なエッセイに近い。白について書き連ねられたそれぞれの話は、全て作者の地肌を感じる描写に溢れている。
各章は白というイメージを根底に敷きながらも、それ以外に共通するモティーフを併せ持つ。特に顕著なのが、姉と母に纏わるエピソードである。この物語に出てくる姉は、生後二時間で息を引き取ってしまったのだという。その後に生まれた作者は、破壊ののち復興したワルシャワの街を歩きながら、接ぎ木された自分の人生を行きつ戻りつする。
「すべての、白いものたちの」は「姉と母に関する物語」と言って差し支えないだろう。白いものは彼女らのことを語るための切り口であり、同時に語り手の持つ静かな哀切を象徴しているようである。例えば本書の中の「白く笑う」の冒頭は次のようになっている。
白く笑う、という表現は(おそらく)彼女の母国語だけにあるものだ。途方に暮れたように、寂しげに、こわれやすい清らかさをたたえて笑む顔。または、そのような笑み。
その痛切は、滑らかな乳白色の下に隠されている。
だがこの痛みとは何なのだろうか? 姉の苦しみを代弁したのだろうか? 生まれてすぐ命を落とした悲劇の後継人として? どちらかというと、私には残された者の痛みのように思えた。つまり、「失われたもの」ではなく、「失われなかったもの」の痛みである。そこにあるのは穏やかな理不尽であり、理屈のない罪悪感ではないだろうか。「しなないで しなないでおねがい」、繰り返し現れるこの言葉は、まるで自身に掛けられたものであるかのようだ。
不思議だったのは、この「すべての、白いものたちの」が、終始穏やかだった点である。まどろみのように揺蕩い、無数に刺さった棘を慎重に取り除いていくような心地よさがある。苦痛に対して、どうしてここまで淑やかになれるのだろう?
その答えのひとつは、きっと生活である。松餅や角砂糖、雪の一片など、日常の中にある白の描写は、丹精で美しい。そこには崇高な理念や哲学ではなく、生活に対する慈しみが滲み出ている。
そしてもうひとつは、受容である。「すべての、白いものたちの」の物語は痛みの話であるが、そこで声を荒げて抗うことはない。みぞれに睫毛を濡らすように、静かにそれを受け止めるのである。そして私は、全ての白いものたちの中に、失われた命を見るのである。白は、きっと魂の色でもある。