羊を逃がすということ

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【雑記】死につつある叔父|故郷紀行

 

 自慢ではないが、私は家族と不仲である。本当に自慢ではない。

 

 色々あったのだ。一言で片づければそれまでだが、私個人としてはのっぴきならない事態である。もし家族と疎遠の方がいるのなら、きっとこの不安を共有してくれるに違いない。即ち、家族が死につつあるということ。肉親との関係を上手く築けず、遠巻きに誤魔化し誤魔化ししていても、いずれやってくる終末。人は誰しも死ぬのだ。先延ばしにしていた問題が、否応なしに迫ってくる。そこから逃れる術はない。

 

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 僭越ながら、こちらは以前書いた記事だ。私と両親の不和と、それから祖母や叔父のことが書いてある。その叔父が、このたび入院する運びとなった。癌の転移が認められたステージ4であり、最早手術さえままならない。頼みの綱は抗癌剤治療であったが、どうやら体力的にそれも厳しいらしい。母から、「叔父が緩和治療を受けることとなった」というLINEが来た。治療とは名ばかりの、緩やかな死である。今後は家に戻ることが出来るかどうかも怪しいという。

 

「次の休みにお見舞いに行きます」

 

 そう送り、私は母との遣り取りを終えた。そして休みがやってきた。私は叔父を見舞うために高槻病院へと向かった。

 

 高槻病院は、私の地元大阪・高槻の最も大きな病院である。私が生まれたのも高槻病院であるし、幼い頃にぜんそくで入退院を繰り返したのもここだった。馴染みのある場所だったけれど、久し振りに足を運ぶと道のりが不安で、結局地図アプリに頼ることとなった。その六階に、叔父は入院しているという。

 

 道中、歩きながら叔父に何と声を掛けるべきか考えていた。母の話では、叔父はまだ治ると信じて病院で悪戦苦闘しているらしい。だが抗癌剤治療さえままならない叔父が、生き延びる可能性は万に一つもない。そんな相手に、どんな言葉を掛けるべきだろう。

 

 体のいい慰めは、きっと本人の為にならないだろう。せめて相手の話に誠意をもって耳を傾けよう。結局私は明確な答えを見付けられないまま、そんなことを考えながら地元の街並みを潜り抜けた。そこは高校から塾へと通う為によく利用した道だった。思い出は次から次へと蘇ってくる。叔父との思い出ではなく、飽くまで若かりし頃の自分の思い出ばかりだ。叔父との思い出は、それほど多くない。物心ついた頃から、叔父は祖母の家で引き籠ってばかりいたからだ。

 

 叔父は可哀想な人である。まだ若い頃に統合失調症を患い、以来何十年も引き籠っていた。気の良い人であるが、きっと苦しい人生だったに違いない。私は幼い頃から、叔父のことを「おにーちゃん」と呼んだ。「叔父さん」と呼ぶには若かったからだろう。だがそんな叔父も、もう六十である。

 

 長らく社会との接点を持たなかった叔父であるが、私が社会人となったことを切っ掛けに、一念発起して作業所で働き始めた。勿論、障がい者向けの就労施設であるから、給与など高が知れている。だがそれでも、叔父にとっては間違いなく大きな一歩だったはずだ。一年前に祖母のうちに訪れた際、母が言っていた言葉を思い出す。

 

「入れ歯を買って、見た目良くして、結婚するんやもんな」

 

 そのときはまだ、叔父が癌になるなど思っていなかった。癌を患っていたのは祖母の方だ。祖母は手術でがん細胞に侵された膵臓の大半を切除し、今は回復に向かっている。誤って入れ歯を飲んで、レントゲンを撮ったのが祖母の命を救った。メスを入れることさえ叶わない叔父とは、雲泥の差である。

 

 綺麗に改装された高槻病院のフロアを横切り、エレベータで叔父の病室があるフロアに向かう。清潔な廊下に、看護師さんのきびきびとした声が響いている。叔父の病室は個室だった。ノックして入ると、以前より更に痩せ細った叔父がベッドに横たわっている。まるで即身仏のようだ。叔父に声を掛け、名前を名乗ったところで、漸く私と認識したらしい。叔父の眼はほとんど見えていないようだった。

 

「調子はどうなん」

 社交辞令のように、私は尋ねた。言葉少なに、叔父は「良くない」と答えた。胸元に点滴の管が伸びている。その根元まで辿ると、モルヒネという走り書きがされていた。名前だけは知っていても、実際目にする機会は滅多にない薬剤である。緩和治療、という言葉のざらつきが、咽喉に引っ掛かって上手く飲み込めなかった。

 

 叔父は言った。「死ぬらしいねん。お医者さんが言ってたわ」

 母の話と違う。叔父は悪戦苦闘しているのではなかったか。だが眼の前にいる叔父は、己の死を受け入れているようだった。「もう色々、諦めがついたわ」、そういう叔父の言葉に、私は上手く返事をすることが出来なかった。励ますのも、同意するのも、残虐なように思えた。私はただ「そうなんか」と同意するに留めた。

 

 私は叔父に、無難なことを話した。外はもう冬が来ているということ、仕事が大変で転職しようと考えているということ、来年の春に結婚するということ。叔父は乾いた相槌を打ちながら、虚空を眺めていた。贅肉がなく、鳥籠のようにすかすかの身体だったが、その瞳だけが奇妙にぬらぬらと光っていた。生々しい光だった。

 

 病室ではテレビが垂れ流されていた。眼が見えていないということだったから、きっと聞き流すくらいのことしかしていなかっただろう。会話が途切れたとき、ふと二人して画面に釘付けになった。テレビでは、寒くなった為なのかおでんの特集が流れていた。

 

「物価高で大根が高いんですが、ここではお値段据え置きで販売しているんですよ~」

 

 レポーターの言葉と共に、使い捨て容器に大根や厚揚げ、牛筋がよそわれていく。私はその画面をじっと見ていた。

 

 叔父は、もう食事が咽喉を通らなくなっていた。その話は事前に母から聞かされていた。お見舞いに行くなら、気を付けてね、と。そのおでんの映像を見ながら、叔父は何を思っていたのだろうか。恐らくもう二度と食べることのないおでんの放送を聞きながら、叔父の胸にどのような思いが過ったのだろう。それを聞く勇気は、私にはなかった。

 

 最後に叔父は、ペットボトルのお茶を飲みたいと言った。肝臓が駄目になっているから、咽喉がよく乾くらしい。私は叔父の腰と背中に手を添えると、その半身を引き起こした。麦茶のボトルを開けて手渡す。高校・大学とやっていた介護のアルバイト経験がこんなところで生きた。叔父は二、三口啜るようにそれを飲み、再びベッドに横たわった。

 

 口を効くだけでも、もうかなり辛いらしい。私はせめて叔父が飲みやすいようにと枕元に麦茶のボトルを置いてやり、暇を告げた。叔父は「ああ」とも「うん」ともつかない声で唸った。「元気でな」、私は叔父の背を撫でた。淡いブルーのパジャマ越しに、背骨の規則正しい隆起が掌へと伝わった。私が触れているのは、紛れもなく叔父の死だった。

 

 私は病室を出ると、折角地元に帰ったのだからと、祖母に電話を掛けた。もし家にいるなら、せめて顔でも出そうと思ったのだ。祖母は在宅だったので、私はそちら方面に向かうバスの停留所へと向かった。向かいながら、私は今日の夕食について考えていた。今日はおでんにしよう。私の鼓膜の中で、レポーターの声が木霊している。

 

「卵の値段は、コロナ禍のまま据え置きなんですよ~」