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【書評】大阪|自分の生きる街のエコー【岸政彦・柴崎友香】

 

 私は大阪生まれの大阪育ちだが、よく大阪っぽくないと言われる。

 同じ関西人に、大阪出身であると言うと驚かれることが多い。喋りが標準語っぽい(あくまで標準語っぽいだけで、ただの大阪弁である)ところや、あまり気が強くないところが、そんなイメージを植え付けるのだろう。

 

 だが大分に旅行に行った際は、土産物屋の店員にずばり「大阪っぽいですね」と言われてしまった。しかも、「大阪の人ってそういうところありますよね」というちょっと面倒くさそうな物言いまで付け足されたのである。

 東京に行った際も、「大阪の人は……」というくくりに含まれることが多い。結局私は、どこまで行っても大阪人である。

 

 そんな中、「大阪」を舞台にしたエッセイが出版された。岸政彦さんの名前は、恥ずかしながら存じ上げず、柴崎友香さんの名前に惹かれて購入した。

 

 柴崎さんと言えば、数年前に「春の庭」という小説で芥川賞を取り、それを切っ掛けに何冊か本を読ませもらった。大阪らしいレッテルを張らず、こうまで等身大で関西弁を使っていいのかと、私の中でパラダイムシフトが巻き起こった記憶がある。そんな著者の大阪エッセイなのだから、読まないという手はない。

 

 私はこの本の大半を自宅で読んだ。それ以外は、主に通勤中の電車で開くことが多かった。御堂筋は大阪の背骨と呼ばれ、それに絡みつくようにして様々な私鉄・地下鉄が伸びている。私は本で大阪を読みながら、同時に身体で大阪を感じている。冒頭、岸さんのマッサージの話を読みながら、そんなことを考えていた。

 

 

  • あらすじ

「大阪」を書くことで、いま街の中で生きる自分の人生を書く――九〇年代から二〇一〇年代に至るまでの時代と人の呼吸を活写した、「大阪へ来た人」と「大阪を出た人」による初共著エッセイ。かつていた場所と、いまいる場所が「私」を通して交差する。文庫化にあたり書きおろし収録。

 

  • 書評

 かつて何処かのネット掲示板で、『もし「東京喰種」の舞台が大阪だったら』なんて話が盛り上がっていた。「東京喰種」とは石田スイさんの漫画のタイトルで、東京を舞台に人肉しか食べられない喰種(グール)の葛藤を描いた作品である。

 

 分かる。非常に分かる。大阪はダサいのだ。

「東京喰種」は格好良かった。線の細い文学系主人公が徐々に闇落ちする様や、都会の持つ冷たさと狂気を歌い上げる「TK from 凛として時雨」には、言いようのないクールな成分が含まれていた。

 もしこの「喰種」の舞台が大阪なら、きっとこうはいかないだろう。珈琲ではなくたこ焼きで飢えを凌ぎ、TKではなくトータス松本が主題歌を担当していれば、流石の金木君ももう少しエネルギッシュになっていたに違いない。

 

 だからだろうか。昔は、漠然と東京という場所に憧れていた。標準語を操り、休日に渋谷や池袋へと足を延ばすというのは非常に洗練されて思えたのだ。

 それと同時に、私は大阪的なものを注意深く生活から取り除くことに尽力した。きっと生まれが高槻というのも影響したのだろう。高槻は括りとしては大阪だが、少し足を延ばせば京都という立地だ。土産物として駅前で八つ橋を売っているくらいなのだから、大阪というアイデンティティも自然、薄くなる(そもそも八つ橋を当然のように置いている辺り、大阪的ながめつさと言えなくもないのだけれど)。

 

 私はたこ焼きをおかずにご飯を食べたりしないし、お笑いにも詳しくない。通天閣に登ったこともないし、贔屓の野球チームは阪神タイガースではなくオリックスバファローズである。

 

 でも、私は大阪人である。大阪で暮らし、大阪で過ごして来た中で、この街の雑多な添加物を蓄積してきた。それは今でも私の血肉に水銀の如く含まれ、違う水に住まう人々にとってはやや有害な成分を撒き散らしているに違いない。

 

 エッセイに書かれている大阪だったが、これはもう等身大の大阪である。それも、「ノリがいい」とか「ボケずにはいられない」と言った、ステレオタイプの大阪ではない。大阪に暮らす普通の人々を描いたエッセイである。

 

 私が知る限り、この普通の大阪を最も上手に描く作家は、柴崎友香さんを置いて他にはいない。エッセイでは柴崎さんが東京暮らしであることに驚かれるというようなエピソードがあったが、その気持ちは非常に分かる。鉄錆のような舌触りのある大阪は、私の暮らした大阪とは些か隔たりがあるけれど、同時に幾らか重なり合う部分もあって、ある筈のない故郷を偲ばせる。

 

 岸政彦さんの方はというと、柴崎さんとは別方向で正直に書かれていて、これもまた共感する部分が多々あった。社会学者さんというだけあって、描写は端的で構成力があり、同時にそこに人間的な血が通うから、読みごたえがない筈がなかった。特に淀川や天満に関しては、自分も歩いた経験があって、何だか他人事とは思えなかった。

 

 二人の対比は特徴的である。柴崎さん側は大阪で生まれ育った内側からの眼を起点とし、岸さんは大阪にやって来た外からの眼を持ち合わせている。柴崎さんの方がやや憂いを帯び、岸さんはシニカルだろうか? この二つの視点が、時代の流れの中に大阪という街を立体視する。

 

 私個人の話ではあるが、以前、堂山町で飲食業をしていたことがある。お初天神の近くにある店で、来る客は水商売の方々やら893やら勧誘目的のねずみ講やら様々だった。世界の終わりとゲロと大便を煮詰めたようなハードボイルドワンダーランドである。

 その店も、コロナを契機に潰れてしまった。時代の変化と共に、大阪という土地を残して、人々の行動が変容する。変わらないのは、そこに生きる声が確かにあったということ、それだけだ。

 

「大阪」は、そんな街の木霊である。地下鉄に乗りながら、私はそれらのエコーに耳を澄ます。すると眼を開いたとき、そこにある大阪の景色はいつもと違って見える――かもしれない。そんな大阪を、まあまあええやん、と思えるのだ。