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【雑記】叔父が死んだ夜|故郷紀行



 叔父が死んだ。享年60だった。

 

 仕事の休憩中、突然母から連絡があった。普段はLINEで一方的に要件を送り付ける母からの電話である。出る前から、嫌な予感がしていた。

「お兄ちゃんが死んだ。来てほしい」

 電話口の母は泣いていた。私は二、三の慰めを口にし、それから電話を切った。具体的に何と言ったかは覚えていない。

 

 上司に連絡し、代わりを見付け、なんとか早めに職場を後にすることが出来た。とは言っても、自宅までは一時間近くかかる。電話で母に向かっていることを告げ、私はICカードを改札にかざした。

 

 道中、私の胸にあったのは、しっかりしなければという想いだった。

 母や祖母は、きっと取り乱していることだろう。祖父は他界しているし、父はそもそも叔父とあまり接点がない。私がしっかりして、段取りをつけなければ。電車に揺られながら、スマホで葬儀や通夜について慌てて調べた。葬式にいくら必要なのか、どういう手順を踏まなければならないのか。あまり外交的でなかった叔父だから、家族葬辺りが妥当なのかもしれない。Googleで検索をかけると、スポンサーによる検索広告が並ぶ。

「あなたの街の葬儀屋。おすすめのランキングは?」

 

 まるでデートの為の居酒屋でも探している気分だった。「担当の方が丁寧に接してくれて嬉しかったです。ただ火葬場での待ち時間が長く、その点が気になったので星は四つとします★★★★☆」

 

 そうこうしているうちに、電車は私の故郷である高槻に到着した。日は既に暮れ、小雨が降っていた。傘を差すほどでもなく、私はスーツの肩についた水滴を払いながら歩いた。

 

 悲しくなかった訳ではない。だが思っていた以上に、無感動な自分に驚いていた。私に電話が来たということは、きっと父や、弟にも連絡がいっていることだろう。私は両親と不仲である。父とはもう何年も顔を合わせていない。こんなことでもなければ、もう二度と会いたくもなかった。その父と顔を合わせることに関しても、私は何も感じていなかった。義務を果たすのだと、ただそれだけを思っていた。叔父の親族としての義務、社会人としての義務。きっと気負っていたのだろう。

 

 緊急外来の出入り口を抜け、叔父が過ごしていた病室へと向かった。先週、私が見舞った病室である。ノックをすると、動揺した女性の声が返って来た。扉を開くとカーテンが引かれていて、奥に女性看護師が二人いた。

 

 カーテンに影が映っている。直観した。あの向こう側にいるのは叔父だ。死後、看護師による身体清掃があるのだと、付け焼刃の検索で知っていた。一人はカーテンの向こう側で作業を続け、もう一人が私のもとへと歩み寄って来た。私は呆然と、眼の前で繰り広げられる出来事に釘付けになっていた。

 

 カーテン越しに動く看護師さんの手付きは、まるで芋か何かを洗うかのようだったのだ。そこではかつて叔父だったものの影が、なすすべもなく揺れている。勿論、プロの方がされているのだから、それはきっと正しい処置だったのだろう。だがその物質感を何の抵抗もなく受け入れられるほど、私は人の死に慣れていなかった。

 

「叔父が亡くなったと連絡を受けてきました」

 やっとの思いでそう言うと、近くに寄って来た看護師さんが言った。

「いま、お身体を清掃してるんですよ。ご家族と一緒にお待ちいただいていいですか?」

「家族は何処ですか」

 促されるまま病室を出た。

 

 

 既に弟と父、それから祖母が集まっていた。高齢の祖母がいたのは予想外だった。どうやら母に車で送ってもらったらしい。私はてっきり、母と祖母は打ちひしがれているものと思っていたが、会ってみたら案外あっけらかんとしていた。電話口では泣いていた母も、「家族みんな揃ってうれしいわあ」なんてことを言う。

 

「そう言えばお祖母ちゃんち、電子レンジ壊れたんやってな」「そうやねん。オーブンも壊れてもうて」「大変やん」「あんた眉毛濃いなあ」「そやから、お兄ちゃんの貯めてたお金で直そうと思って」「そんな貯金あったっけ」「葬式、お祖父さんのときは200万かかったから」「死ぬ前にお兄ちゃんに聞いてん。電子レンジ買うてええかって」「返事できへんけど、眉間に皺がくって寄っとったわ」

 

 気負っていたのは、私だけだったようだ。母と祖母は、少なくとも表面上は落ち着いて見えた。弟は場の空気を読んで控え目に立ち振る舞っている。父が無口だったのは、きっと私に対する負い目があったからだろう。

 でもきっと、みんな(少なくとも父を除いたみんなは)悲しかったに違いない。叔父の最期の言葉は、立ちあった母にも、祖母にも聞き取れなかった。だがきっと「ありがとう」だったのだろうと、二人は口を揃えて言った。そうなのだろう。ありがとう、そう叔父は言って息を引き取ったのだ。

 

 先程とは別の看護師さんから声がかかり、清掃を終えた叔父と対面することが出来た。テレビドラマで眼にする、眠るような死に顔を想像していたが、叔父は眼と口を開いたまま、まるで不意に向けられたカメラに反応できなかったみたいに、呆けた表情で横たわっていた。

 その姿は生前と変わらない。ただ虚空を見つめるその瞳だけが、ぼんやりと濁っていた。

 

 母はその頭を撫でながら、「抗癌剤で抜けた髪、生えて良かったなあ」と言っていた。祖母は頻りに「寒そうやなあ」と繰り返し、シーツを肩まで上げようと引っ張っていた。叔父はその全てに無反応だった。死んでいたのだ。大好きな矢沢永吉を聞くこともなく、念願である中日ドラゴンズの優勝を眼にすることもなく、もうこの世に命を留めてはいなかった。

 

 私と弟と父は、ベッドの傍で立ち尽くしていた。二人が何を考えていたのかは分からない。私はずっと、半開きになった叔父さんの口元を凝視していた。

 叔父の身体は、その命が絶えた後も、間違いなく同一のものとしてそこに姿を留め続けていた。もし何らかの方法で息吹が吹き込まれれば、きっと叔父は生前と同じ掠れた声を発したことだろう。年代物のサキソフォンのように。

 

 だが勿論、そんな手段は存在しない。叔父は死という経験を経て、完全に不可逆な障壁を超えてしまったのである。そのとき私が思いを馳せたのは、地元を流れる芥川のせせらぎだった。もう何年も眼にしていないのに、その水面の煌めきが不意に瞳に飛び込んで来た。

 川の水は絶えず入れ替わりながら、同時に川としての同一性を保持している。痩せ細っても、同じ川。河川敷をコンクリートで固めても、同じ川。

 

 だがひとたび水が枯れてしまえば、それは川ではなくなってしまうのだ。生きているというのは、連続しているということだ。絶え間なく続いているということ。細胞レベルで見れば、私は昨日の私とは別人だが、少なくともその変化は連続している。そういう個人的でささやかな歴史が、今の私を形作るのだと、歯並びの悪い叔父の口元を見ながら考えていた。

 

 ふと、冷静になる。私は、一体この文章を何の為に書いているのだろう。

 叔父を悼む為ではない。悼むなら、静かに祈るべきだった。文章にして感情を整理しようなどという綺麗ごとを言うつもりもない。私は多分、自分の満足の為にこれを書いている。叔父ではなく、自分自身の為に。

 

 葬儀屋が来るまで待つつもりだったが、高齢の祖母は体力的に厳しいだろうという話になった。苛立った調子で、父が母に声を荒げた。何年も前に見た光景だ。父はまるで変わっていなかった。変わるとも思っていなかったが。

 祖母をタクシーで送ることにして、私と弟が同乗した。母が自家用車で祖母と我々を送ろうとしたが、それだと叔父と父が二人切りになってしまう。それは叔父が可哀想だった。

 

 祖母は外の天気を心配していたが、病院を出ると、さっきまでの小雨はやんでいた。先に呼んでいたタクシーに乗り込み、先週訪れたばかりの祖母の家へと向かった。

 認知症の始まりつつある祖母は、同じ話を何度も繰り返す。

「あんた肌の色、白いなあ。(叔父さんの名前を呼んで)生きてるみたいやったなあ。外、雨降ってるんとちゃう?」

 

 雨は降っていなかった。祖母は泣かなかった。私も、弟も泣いていない。そして川は枯れ果てていたのだ。それだけが確かだった。