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【書評】ゲーテはすべてを言った | 歴史は繰り返さないが、韻を踏む【鈴木結生】

 

 久し振りの書評である。

 ここしばらく、プライベートが何かと忙しくて、ついついブログに手が伸びなかった。そうは言いつつ本は読んでいたのだけれど、小説というよりビジネス系のものが多く、このブログの趣旨にも合わないので、書くことがなかったというのが正直なところだろう。

 

 つい最近、松永K三蔵さんの「バリ山行」を取り上げたばかりのような気がするけれど、気が付けば芥川賞が発表されていた。安堂ホセさんの「DTOPIA」と、鈴木結生さんの「ゲーテはすべてを言った」である。

 

 書店で平積みになっている本書は、朴訥とした表紙で、なんだか最近の本らしくないと思った。洗練されたものというよりも、作り手の温もりをそのまま押し出したとでもいうかのような。タイトルも素敵だった。特別ゲーテに思い入れがある訳ではないけれど、思わず購入してしまった。

 

 勝手な妄想で、中身はかちこちの哲学的なものに違いないと思い込んでいたのだけれど、そんなことはなかった。思っていたよりもエンターテインメント、楽しい本である。それでいて学術的な記述にはかなりのカロリーを消費しているのが見て取れる。丁寧に作られたものであることが伺い知れた。

 

 何より、読んだ後に勉強してみたくなる。アカデミックな空気を味わいたくなる、そういう小説だった。

 

 

  • あらすじ

高名なゲーテ学者・博把統一は、一家団欒のディナーで、彼の知らないゲーテの名言と出会う。

ティー・バックのタグに書かれたその言葉を求めて、膨大な原点を読み漁り、長年の研究生活の記憶を辿るが――。

ひとつの言葉を巡る統一の旅は、創作とは何かという深遠な問いを投げ掛けながら、読者を思い掛けない明るみへ誘う。若き才能が描くアカデミック冒険譚!

 

  • 書評

 私は大学で物理学を学んでいたので、少なからず数学畑に片足を突っ込んでいた。数学に関して一つ、好きなジョークがある。数学科のテストでは、もし答えが分からなければ、「オイラーの定理により自明である」と書けば良いという。何故ならオイラーは定理を発見し過ぎていて、出題者にも間違いかどうか判断できないから。

 

ゲーテはすべてを言った」はこのオイラーのジョークのドイツ文学版である。即ち、出典が不明瞭な文言は、全てゲーテが言ったことにすれば良いという。それくらいゲーテが優れた作家であるということなのだろう。

 

 本書は、出典の分からないゲーテの言葉を探し回る物語である。その筋から容易に想像できるように、アカデミックな要素が強い。思えば、冒頭に書かれた端書きからその端緒は見て取れる。例えばこの書籍の冒頭には、こんな文言が含まれている。

 

……そのため、本作を手に取る人の中には当然、博把統一の著作のファンも数多くおられることと思うが、そういった方々については、統一自身が既に発表している「未発見のゲーテ書簡について」(http://www.hakugei.site/backnumber/123)も併せて読まれることを強く勧める。本作の学術的記述に関して誤りがあれば、それはすべて作者の責任である。

 

 URLも含め、原文ママだ。明らかにその筋の専門書を髣髴とさせる言い回しである。ちなみに、このURLはダミーページであると思い込んでいたが、アクセスすると(驚くことに)きちんと

博藝

というページに繋がっていた。尚、このウェブページ自体、作成日時は2027年となっている。極めて現実に肉薄しているが、このサイトも含めフィクションである。

 

 本書の最も特異である点を挙げれば、この出典と引用というプロセスだろう。主人公の博把統一は、ゲーテの全集を漁り、英語版やドイツ語版にも目を通し、検索をかけ、果ては知人にメールを送って知恵を得ようとする。参照、引用のプロセスは、学問においては基本だろう。だがどうしてもその文言は見付からない。

 

 そうこうしている間も、博把統一の生活は歩みを進める。大学で講義し、生徒の論文を読み、ゲーテの研究家としてテレビに出演する。娘や母親、大学の友人や生徒との会話の中で、ゲーテを含めた様々な作家の作品が引用される。

 

 ある種それは、冗長であるとさえ言えるだろう。その冗長さの先にあるのは、何なのだろうか。「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」、出典の分からないゲーテの言葉は、次第に博把自身のものとなっていく。

 

 もしかするとこれは、新しく自分でものを発信するという苦心を、そのまま物語として表したのかもしれない。ただ一言そう述べる為だけに、迂遠なる回り道をしなければならなかったのではないか?

 

 そして物語は、博把統一の周りの人々を巻き込みながら、非常に綺麗にまとまっていく。それはある種メロドラマ的であり、ご都合主義であり、ゲーテ的である。

 ゲーテの代表作である「ファウスト」では、冒頭で悪魔が神に、ファウストを堕落させてみせようと賭けをする。その言葉通り、ファウストは堕落の一途を辿る。しかしそこに、ゲーテは愛の帯を結んでみせるのだ。

 

 或いはこの作者は、同じことをこの「ゲーテはすべてを言った」で行おうとしたのではないだろうか。丁度、上記のサイトに良い言葉が載っていた。

 

歴史は繰り返さないが、韻を踏む。

 

 ただし、ファウストと違って、この作品の救いは神によってもたらされるのではない。救いは、自身の言葉が発せられることによってもたらされるのだ。なぜならあらゆる言葉は、未来へ投げ掛けられた祈りなのだから。