先日、ゲーテを題材にした鈴木結生さんの「ゲーテはすべてを言った」を取り上げさせてもらった。それ以来、どうしてもゲーテを読みたくなって、手近にあった文庫本を漁り始めた。そんな訳で、今回はゲーテ「ファウスト」である。
私にとって、ゲーテは思い出深い作家である。大学生の頃、「ドイツ文学を読む」という講義を取った。その折、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の映画を見る機会があった(ちなみに映画の出来はぼちぼちだった)。
「ウェルテル」自体は小説で読んでいたから、筋は知っていたのだけれど、折角授業でとったのだからと再読することに決めた。そしてこの度は、ファウストの再読である。どちらかというと飽き性な性格故、あまり何度も同じ本を読むということはないのだけれど、どうやらゲーテはその例外らしい。
そしてこれは偶然だったのだけれど、丁度私は仕事を辞めて、時間が出来てしまったので、NETFLIXで荒川弘先生の「鋼の錬金術師」を見ていた。「ファウスト」を読んだことがある人ならピンとくるかと思うが、「ハガレン」がゲーテのこの作品に影響を受けたことは想像に難くない。
思えば、私が学生時代に見た「魔法少女まどか☆マギカ」も、「ワルプルギスの夜」など極めてゲーテ的なエッセンスを秘めていた(ゲーテが初出ではなく、ドイツの文化的なお祭りだそうだが)。ゲーテという作家の作品は知らずとも、日本文化への影響は計り知れないようだ。そういう意味では、「ファウスト」再読というのは文学史の遡上と言っても差し支えないのかもしれない。
とは言え、初めて「ファウスト」を始めて読んだ頃、私の印象はあまり芳しくなかった。正直なところ、グレートヘンの花占いのシーンで「そんなベタな……」という感想しか抱かなかった。しかし歳を取るにつれ、私の中でも見る角度に違いが出て来たようで、そういう観点から改めて振り返ってみたい。
- あらすじ
第一部
ゲーテはこの大作を24歳で書きはじめて82歳で書きおえ、83歳で没した。詩人の天才をもってしても完成に殆ど全生涯を要したのである。「ファウスト」第一部では、学問の無力に絶望した大学者ファウストが悪魔メフィストの助力を得て官能的享楽の限りをつくそうとするが、それは心清きグレートヘンの痛ましい悲劇におわる。
第二部
グレートヘンの悲劇から立ち直ったファウストは次に美を追求することで生の意義を把握しようとして果たさず、最後に人類のため社会のための創造的活動によってはじめて自己の救済にあずかる……。脱稿した「ファウスト」第二部の原稿を前に、ゲーテは「私の今後の生活は全くの贈物のような気がする」といってその完成の悦びを語った。
- 書評
あらすじが二つあるのは、「ファウスト」が第一部と第二部で別れているからだ。そして第一部と第二部は、全く異なる趣きを持っている。
第一部は主人公ファウストとグレートヘンを巡る悲劇的な物語だ。視点はほぼ常にファウストの背後に固定され、読者はファウストに感情移入しながらその物語を読み進める。
打って変わって第二部は、遠景からの視点が特徴的と言えるだろう。気が付けばファウストは舞台から退き、代わりに物語を進行するのはメフィストフェレスやホムンクルスだったりする。そしてやっとファウストが現れたかと思うと、今度はヘーレナを追って何処かに消えてしまう。
この違いは何処から現れたのだろうか? これまで私は、僭越ながら風呂敷を広げ過ぎた結果だと思っていた。だが今回読んでみて少し異なる感想を抱いた。そこにあるゲーテの包括的な視点を、確かに感じ取ることが出来たような気がしたのである。
「ファウスト」の元ネタとなったファウスト伝説は、もともとゲーテが暮らす地方で広く知られた物語だったという。それは文字通り悪魔にかどわかされた哀れなファウストが地獄に堕ちる悲劇の物語であったが、ゲーテの描くファウストは違う。ゲーテのファウストには救いがもたらされるのだ。これはメフィストフェレスからすればたまったものではないだろう。
そもそも、ファウストの魂の処遇については、メフィストフェレスと神様の間で事前に取り決めがあったのだ。にも拘わらず、最後の場面で天使がファウストを救いあげてしまう。ある意味でメフィストフェレスに対する裏切りであり、どちらが悪魔であるか分からない所業である。しかしこの不義理な結末を、ゲーテはつけずにはいられなかったのだろう。
何故ならファウストは、ゲーテの生涯の伴走者だったから。特に第二部に至って出てくる大量の登場人物を見ていると、まるでゲーテの走馬灯を見ているかのようだ。勿論それはゲーテが出会ってきた文学作品や神話の登場人物へと仮借され、高度な比喩に偽装されている。しかしそれは、リップサービスの為に配置されたというにはあまりにも膨大で、あまりにも生々しいと言わざるを得ない。例えば絶世の美女ヘーレナに対する、賞賛の声と非難の言葉がその最たるものである。
つまりそれは、ファウスト博士の生涯を通してみた、人生という名の絵巻物に他ならなかったのだろう。その最後に救いを置いた采配は、ゲーテの現実に対する愛情と言ってしまって良いのではないだろうか。
決して、「ファウスト」は純粋なハッピーエンドという訳ではない。例えば、第二章の粗筋には「最後に人類のため社会のための創造的活動によって……」とあるが、それを命じられたメフィストフェレスは誤って人の命を奪っている(そしてファウストはメフィストに呪いの言葉を浴びせる)。しかしそれでも、ファウストは救いに値するのである。
ファウストを救いし天使は言う。
絶えず努め励むものを
われらは救うことができる。
ファウストのように、迷い挫け、失敗したとしても、それは無意味ではないと、ゲーテは言いたかったのかもしれない。ワルプルギスの夜のように魑魅魍魎溢れる人生についても、同様なのだろう。即ちそれは、ゲーテ本人にとっても救いであったに違いない。きっとそのくらいの勘違いを、ゲーテ先生は許してくれることだろう。