先日、書店に足を運んだ時、もう芥川賞の発表なのかと時間の流れを切実に感じた。つい最近、「バリ山行」や「サンショウウオの四十九日」に関する書評を書いた気がするというのに、もう次の作品が発表されている。そんな訳で、買わずにはいられなかったのがこの「デートピア DTOPIA」である。
「デートピア」という独特なタイトルであるが、私はこれを「ディートピア」と読むものと勘違いしていた。正しくは表題の通りで、作品内に登場するリアリティショーと同名である。貸し切りに近い離島で、男女の恋愛を扱った作品は、同じく芥川賞を取った「ゲーテはすべてを言った」とは真反対である。正直なところ、読む前はどちらかというと直木賞向きのストーリーなのではないか(つまりエンターテインメント的な作品なのではないか)と思っていた。
その予想は裏切られた。良くも悪くも、であるが。
- あらすじ
舞台は南太平洋の楽園、ボラ・ボラ島。白人女性"ミスユニバース"を巡って10人の男が競う。Mr.L.A.、Mr.ロンドン、そしてMr.東京――やがてショーの視聴者たちは、「自分だけのDTOPIA」を編集し始め、楽園の時間は膨張する。
- 書評
少し前に遡るが、「推しの子」という作品で炎上騒ぎがあった。「推しの子」は赤坂アカさんと横槍メンゴさんによる人気漫画で、アニメ化や映画化もしている。そのアニメ作品で、リアリティショーを題材にしたパートに差し掛かったのである。
そのリアリティーショーで精神的に追い詰められたヒロインの一人が、高架から飛び降りようとする。それを主人公が助けるというシーンがあるのだが、これが数年前に起きた実際の事件と酷似しているとして炎上した(実際の事件の方では、リアリティショーに出演されていた方が亡くなっている)。
リアルタイムでこのアニメを追っていたので、炎上のことは覚えている。私自身の肌感覚としては、確かに原作がリアリティーショーの一件の影響を受けたことは否めない――と思いつつも、作中では決して不敬な扱いではなく、むしろ救おうと模索する姿が垣間見えるので、正直それほどまで拒否感はなかった。しかし被害者の遺族の立場ともなれば、感じ方は変わってくるのかもしれない。
結局のところ、この件の是非は判断しかねるのだけれど、一つ言えることがあるとすれば、リアリティショーとは人間の本性に肉薄する性質があるということである。それはショーそのものもそうであり、また見る側がどのような立場で鑑賞するかというところもそうなのだろう。
私はどうしてもその生臭さが苦手で、リアリティショーの類は避けてしまう。創作の世界の居心地が良いのは、少なくともそこに作者の意図や理解が存在するからだ。例えそれが理不尽であったとしても、そこには物語を構成する役割がある。だからある意味でそれを必然として受け止められるのである。
けれどこの「デートピア」は、そうした予想を裏切ってくる。果たしてこの暴力性を、どのように許容したら良いのだろう。暴力が暴力として存在する、しかもそれが剥き出しの理不尽としてそこに横たわる。そしてそれは、本筋であるところのリアリティショーには何一つとして影響してこないのである。
戦慄するのは、そのディテールだろう。カッターナイフで睾丸を切除する描写が必要に繰り返される。派手な叫びや多量の出血というのはない。薄い刃で柔らかな皮膚を切り開く様は、思わず己の下腹部を労わってやりたくなるほどである。
これと同種の感覚を味わったのは、村上龍の「イン・ザ・ミソスープ」だった。しかし村上龍の暴力は、そこから逃走する(或いは闘争する)という意味において、やはり意味があった。だがこの「デートピア」においては、そのようなメタ的な意味での正当化は通用しないようである。そしてそれらは、リアリティショーのバックグラウンドに押し隠され、表面から実情を覗き込むことは出来ない。
もしかすると、登場人物たちですらその暴力性の意図を把握し切れていないのかもしれない。主人公である私と、もう一人の主人公であるお前との交流が、印象的である。そこには時間に隔てられた距離があり、何処か他人行儀の気まずさのようなものが感じられる。それは教訓に出来なかった暴力や、憎しみに昇華できなかった傷跡が、そのまま過去として残り続けているからではないか? そんな風に感じた。
そしてもう一つの見どころと言えば、作者の言及に対する幅広さだろう。アリアナ・グランデやブルーノ・マーズに始まり、イスラエルの虐殺やフランスの核実験にまで言及する。これらに共通するのは、まだ生々しい現実として、そこに全てが存在しているということだ。そこにはある種の意趣返しがあるのかもしれない。例えば、作中にはこんな文章がある。
バービー人形という白人ルッキズムと資本主義の合成物。原爆。男女差別。黒人と白人の格差。ネイティブアメリカン虐殺。もう誰の責任か追及できないぐらい昔の、すでに起きてしまった過ちを、白人俳優たちが「私たちは自分の愚かさをちゃんと分かっています」って顔で演じてみせる映画を、ハリウッドは強迫観念のような勢いで量産した。
暴力は今尚そこにあり続けるのだ。リアリティショーのように、そこに各々の意味をつけることは可能だろう。ただしそれは、飽くまでそこにあり続けるのだと――そう解釈したくなるのも、私がオリジナルのデートピアを編集した結果なのかもしれない。