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【書評】同志少女よ、敵を撃て | 戦争は誰の顔をしているのか【逢坂冬馬】

 

 私は、戦争を知らない世代である。

 

 日本に住む多くの人々は、きっとそうであろう。戦争と言えば、広島や長崎の平和学習で学び、「戦争は怖いもの」「原爆は恐ろしいもの」と、最早触れてはならない常識の範疇に書き込まれてきた世代である。事実、戦争は本当に恐ろしいものだ。完全に統制された軍隊が存在しないように、完全に統制された暴力というものもない。どれだけ綺麗事で丸め込んでも、戦争が人間の暴力的な部分を過剰に際立たせるのは事実である。

 

 被爆国である日本人の多くは、平和学習の一環として原爆ドームを訪れるのではないだろうか? そこで生き残った方々の話に耳を傾け、何となく自分たちが被害者のような気分になる。正直なところ、義務教育下の私もそうだった。

 

 必ずしもそうではないと知ったのは、興味を持って主体的に第二次世界大戦について調べてからのことだ。戦争について書かれた書籍を読めば、そこには侵略国としての日本の姿がある。勿論、原爆という兵器の恐ろしさを語ることは、唯一の核兵器被爆国として、大切な役割なのかもしれない。ただ大切なのは、戦争の恐ろしさは核兵器ばかりにある訳ではないということだ。

 

 国という視点に立つなら、敵と味方は国境線で決まる。だが性別という立場なら? 戦争における敵と味方の境界は、曖昧にならざるを得ないのかもしれない。恐ろしいのは、私がもしそこにいるとき、果たしてどちら側になれるだろうかという問いに答えられないことだ。戦争という極限状態で、正しさの根拠が血と政治で目まぐるしく変わる中で、正しいばかりの自分でいるのは難しいだろう。

 

 本書は、そんな第二次世界大戦の、ソ連兵に属する女性を主人公にした小説である。初版は少し前で、しばらく箪笥の肥やしとしていたのだが、最近文庫本やらコミカライズやらが進んでいるということで、手に取ってみた。尚、この本は高校生直木賞に選ばれたということで、自分より若い世代が積極的に戦争に関する本を読んでいるというのは、他人ごとながら感無量である。

 

 

  • あらすじ

独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。

「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために……。

同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした”真の敵”とは?

 

  • 書評

 壮絶なあらすじだが、取っ付きにくいという訳ではない。というのも、この小説はキャラクター周りをポップに彩ってくれているからだろう。それは、子猫のような、所謂「ツンデレ」気質のシャルロッタであったり、穏やかなママやクールな(だが部屋が汚い)アヤなど、戦争小説とは思えないほど登場人物がキャラクタライズされているからである。

 

 さてこれはどうだろう。もしかすると、読む人が読んだら、シリアスな舞台にこういう人物造形はミスマッチではと感じるかもしれない。正直、私も初めはそう思っていた。しかし中盤には引き込まれ、佳境に入ると一息で読みつくしてしまった。それはきっと、各々の定型化されたキャラクターが、戦闘行為を経て少しずつ剥ぎ取られていく様子に、戦争というものの暴力性を感じ取れたからだろう。ある意味で、この「同志少女よ」は、戦争というリアルがエンタメ・フィクションを侵略している様相を呈している。

 

 その戦争の描写だが、こちらはかなり綿密に描かれている。例えば、スターリングラードに赴く前には、以下のような描写がある。

 

 ヴォルガ川西岸に位置し、人口六〇万人を誇る一大工業都市。かつてはタタール語に由来する「ツァリーツィン」という名で呼ばれたスターリングラード独ソ戦において最大の激戦地となったのは、何も二人の独裁者がその名に拘泥したためではない。

 

 言うまでもなく、二人の独裁者とはヒトラースターリンで、戦意高揚の為に指導者の名を冠するスターリングラードを攻め争ったというのは、丸きり嘘ではないにしても一面的なものの見方であると述べている。

 

 スナイパーの描写も、丁寧でリアリティに溢れている。例えば、スコープを覗いて見える景色や、それに対する距離の測り方。ミルと呼ばれる角度の単位や、それを習得するための訓練などは、スナイパーとしての厳しさや技術の習得という面に、説得力をもたらしている。

 

 ただ矢張り、何よりも面白いのだ。それこそがこの小説の、一番の強みなのだろう。復讐を誓った主人公の蛮勇は、ある種の痛快ささえある。ただそれが、戦争をエンターテインメントとしか扱わない軽薄な娯楽作品に堕さないのは、真実その戦争で描くべきものに対して、葛藤しながらも主人公が向き合おうとするからだろう。

 

 女性にとっての戦争。その銃口は、知らないところから私の眉間を狙っているかもしれない。作中で言及される、「戦争は女の顔をしていない」というスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの本は、タイトルは知っているが未読である。いずれこちらも読んでみよう。