
毎回、記事を書く度に冒頭で投稿頻度の下がった言い訳をしているような気がする。なかなかどうして、最近忙しいのです。プライベートの言い訳になるが、絶賛転職中である。
特に最近は面接が佳境に入っていて、毎日のように画面に向かってつらつらと自分の人生について語っている。勿論、その経歴は転職活動用に巧妙に加工されたもので、実際の私の人生とは明らかに乖離したものである。当然それは面接官の方々も承知の上であろうし、私自身もその通りだと認識している。悪く言えば茶番、良く言えばTPOに対する適性を見られていると言えるのかもしれない。
私見であるが、その「転職用に加工された経歴」というのは、ある種の私的小説と真反対に位置するのではないかと思う。その筆頭が、デルモア・シュワルツの「夢のなかで責任がはじまる」である。
ここで味噌なのは、私的小説であって私小説ではないというところだ。デルモア・シュワルツの作品は、明らかに本人の人生を反映したものだが、そこに現れる主人公は作者のペルソナであっても同一人物ではない。自分を物語の蚊帳の外に置き、客観的な視点から自分自身を作品に投影することで、私小説の陥りがちな露悪癖を避けている。陳腐な言い方をすれば、カフカ的とでも言えるのかもしれない。
そしてその物語群の中では、夢が重要なテーマとなっている。しかし私が思うに、夢ほど主観的なものはないのではないだろうか? 夢を見ているうちは、誰しもがその光景を(どれだけ馬鹿げていても)現実だと思うのではないか? それを客観的に披露するというのは、ある意味で自分の世界に対する裏切りなのではないか? そんな邪推をしてしまうのだ。
それはつまり、自分の人生を理不尽な夢の形にしてしまうことで、そこにある痛みを滑稽で支離滅裂なものに仕立ててしまうのではないかという危惧だ。それはもしかすると、デルモア・シュワルツにとっての自己防衛であり、自己否定であったのかもしれない。夢から覚めたとき、そこで見ていた悪夢の意味が霧散してしまうように、デルモア・シュワルツの苦痛は夢の中でその根拠を失う。後に残るのはどうしようもない現実ばかりである。
それもまた、カフカ的と言えなくもないのかもしれない。

- あらすじ
1909年6月12日、日曜日の午後。
20歳の「僕」は映画館のスクリーンで、若い頃の両親が、コニーアイランドでぎこちないデートを続ける光景を観ていた……。
ニューヨークを舞台に、若者たちが抱える焦りと輝きを鮮烈に映し撮り、ナボコフ、エリオットらに鋭い才能を湛えられた、「新世代の代弁者」待望の本邦初作品集。
- 書評
タイトルを眼にして、まず連想したのは村上春樹の「海辺のカフカ」だった。「海辺のカフカ」では、ある日脈略もなく主人公のシャツが真っ赤な血で染まる。その血痕は自分のものではなく、誰かのものである。それは夢の中で浴びた返り血なのだ。
確かそんな場面だったと記憶している――と思っていたら、本書の後書きでも一部触れられている箇所があった。どうやら村上春樹はそこで本書に言及しているようだ。残念ながら「海辺のカフカ」はいま手元になにので、確認はできなかった。
本書には、表題作である「夢のなかで責任がはじまる」を含め、八つの作品が収録されている。どれもアメリカ文学特有の退廃的な雰囲気に包まれているが、そこに夢という舞台装置が導入され、ある種ロマンチックな代物になっているのが印象的である(勿論、その中には夢がモチーフになっていない作品もあるが)。
家族関係のトラブルや、景気に左右される社会に翻弄されながらも、物語は何処かスマートである。そのスマートさは上述した客観的な視点からもたらされるもので、それが理不尽と絶妙なバランスで配合された結果、「寂しさ」のようなムードが通底しているのが、本書の最大の特徴だろう。
とは言え、希望がない訳ではないのだ。ただ薄っぺらな希望を提示することを、著者は頑なに拒んでいるようである。例えば、「スクリーノ」という作品では、スコットランドの詩人としてウィリアム・ダンパーの詩が引用される。
陽気であれ! 思い煩うなかれ
この惨めな世界で揺らぐ悲しみを!
(中略)
楽しく生きる者こそ強く生きよう
喜びなくしてなんの宝ぞ
しかしその詩を引用した直後に、著者の言葉としてこう続くのだ。
嬉しそうにそう言って、やりたいと思ったことを堂々とできた実感を噛み締めながら、ほとんど自分から街を隠し、頭のまわりを取り囲む霧とともに家に戻ってくると、彼はまた部屋でひとりきりになるのだった。
強固に楽観を拒む姿勢は、ついに成功することなかった作者の人生を反映した結果なのかもしれない。ただそれでも大切なのは、そこに希望はあったという事実である。
それが絶え間ない自己否定に晒される代物であったとしても、希望は微かな輝きとなって人生を霧の隙間から照らすに違いない。というか、そうあってほしいというのが、私の願望である。後書きで触れられている著者の死は惨めであり、なんだかそれ自体がデルモア・シュワルツの作品の一部のようであった。そんな人生においても希望に意味があったと思いたいのは、私自身の願いが反映された結果なのだろう。
しかしそれは、悪いことではないはずだ。例えそれが悪夢であったとしても、眠りは痛みを和らげるものなのだから。責任を負うのは、その後でも遅くはない筈だ。
