羊を逃がすということ

今日ある本が明日もあるように

【書評】おいしいごはんが食べられますように | 弱さに対する理不尽な憧れ【高瀬隼子】

 

 

 自分で言うのもあれだが、私は自炊をする方だと思う。でも、決して自炊が好きな訳ではない。ただ単純に外食だと高くつくから、自炊をしているに過ぎない。

 

 現在、私は転職活動中なので、ほとんど日中は家で過ごしている。働いている間は、職場で食事をとることがほとんどだった。私はいつも夕食を作ったついでに、その一部をお弁当に詰め込み、ご飯を予約してから寝る。そして翌朝になると、そのご飯と汁物を入れてお弁当を完成させ、職場に向かっていた。

 

 ご飯を作るというのは、とても面倒な作業である。まず第一に、お腹が空かないとやる気がでない。しかしお腹が空いたからと言って、ご飯を作りたいという欲求が沸き上がるかと言えば、そうではない。湧き上がるのは食欲、つまり、即座にご飯を食べたいという願望なのだ。料理という工程を飛ばして。

 

 勿論そんなことは出来ないので、原理上どうしても空腹状態でご飯を作らざるを得なくなる。だったら事前に先読みして、お腹がすく前にご飯を作ればいいという人もいるだろう。しかしそう簡単ではない。ご飯作りを趣味でやっているとかでなければ、そもそもご飯を作る行為そのものが面倒なのだ。

 

 即ちご飯作りとは怠惰と欲望のいたちごっこであり、それを規律正しく管理して行うというのには、ある種の人間的な崇高さが求められる。少なくとも私はそう思っている。

 

 さて、本日紹介するのは高瀬隼子さんの「おいしいごはんが食べられますように」。祈りにも似たタイトルとは裏腹に、中身はなかなかドロドロとしていて、人間的な息苦しさに塗れている。

 

 そういえば私が大学生の頃、友人がこんなことを言っていた。「好きな人と食べるご飯は美味しくて、そうでない人とのご飯は、どんな高級レストランでもいまいちに感じる」。ご飯とは、もしかすると恋愛と強く結び付いているのかもしれない。そして言うまでもなく、生きることそのものでもある。

 

 

  • あらすじ

真面目で損する押尾は、か弱くて守られる存在の同僚・芦川が苦手。食に全く興味を持てない二谷は、芦川が職場で振る舞う手作りお菓子を無理やり頬張る。押尾は二谷に、芦川へ「いじわる」しようと持ちかけるが……。

どこにでもある職場の微妙な人間関係を、「食べること」を通してえぐり出す芥川受賞作!

 

  • 書評

 本作は、第167回芥川賞受賞作である。ということで、所謂純文学的な要素のある作品だが、読み口は軽い。帯を見ると、サイコホラーやミステリー、恋愛小説のようだという文字が並ぶ。しかし私の所感としては、ミステリー要素の薄いイヤミスというような感じである。

 

 タイトルから分かる通り、本書は「食べること」が大きなテーマとなっている。本文は二谷と押尾の視点を順繰りに入れ替えながら、至ってシンプルに進む。その中で、二人の食事シーンが頻繁に繰り返される。

 

 印象的なのは、二谷の食事に関する描写だろう。彼は職場にいる芦川と肉体関係を持ちながら、それを周囲には知らせずにいる。そんな中で、芦川が職場に持ってきた手作りのお菓子を、非常に強い嫌悪感を持ったまま食すのである。例えばそれは、以下のような描写に詰まっているだろう。

 

生クリームが口の中いっぱいに広がる。歯の裏まで、奥歯の上の歯茎で閉じられた空間にまで入り込んでくる。みかんとキウイを噛んで砕く。じゅわっと汁が広がる。その範囲をなるべく狭めたくて、顎をちょっと上げて頭を傾ける。噛みしめる度に、にちゃあ、と下品な音が鳴る。舌に塗られた生クリーム、その上に果物の汁。スポンジがざわざわ、口の中であっちこっちに触れる。柔らかいのと湿っているのとがあって、でもクリームと果物の汁で最後には全部じわっと濡れる。噛んですり潰す。飲み込む時、一層甘い思い匂いが咽喉から頭の裏を通って鼻へ上がってくる。

 

 じゅわっ、にちゃあ、ざわざわ、凡そケーキに似つかわしくない擬音が続く。それはまるで、添加物に覆い隠された咀嚼という行為に関する残虐性を、ことさら強調しようとしているかのようだ。二谷の食事に対する歪な描写は、そのまま芦川との関係を反映しているようである。

 

 この書籍の表のテーマが「食べること」であるとするならば、裏のテーマは「弱さ」だろう。お菓子を作って職場に持ってくる芦川は、弱い。体調不良で嫌な仕事から逃げ、その庇護欲をそそる態度から男性上司に気に入られている。その弱さは、真面目でしっかりと仕事をこなすもう一人の主人公・押尾にはズルいものに思える。彼女はそのズルさに対して、小さな報復を行う。

 

 私が思うに、確かに芦川はズルかった。だが押尾は、そんな芦川のズルさに対して、ある種の憧れのようなものを抱いていたのではないか? それはこの小説のあるシーン、体調不良で嘔吐しそうになる押尾が、これ見よがしにみんなの前で袋を構え、結局吐けないシーンで明らかになるように思う。

 

 確かに芦川はズルかった。だが誰しもが芦川と同じ方法で(つまり弱さをアピールすることで)利益を得ることは出来ないのだ。上記のシーンで、押尾はそれを体現したのではないだろうか。そしてこれも私の主観だが、そんなズルい相手に報復する為、二谷を誘って嫌がらせをしようとする押尾も、そんな状態で二人と肉体関係を持とうとする二谷も、十分に狡猾である。

 

 最後のワンシーンは、そんなズルさを戯曲化したような、作り物臭さがはっきりと感じられる。それは砂糖菓子で彩られたケーキのように人工的で、胸やけがするほど甘い。この社会で生きるという行為を、愛と理想でデコレーションした結果ではないだろうか?

 私はそこに嫌悪感を覚えると共に、ふと思い立って即席麺を作ってみた。スープのもとを入れ、解れた麺を掻き混ぜる。そして私は気が付いた。私は少しだけ、ご飯を食べるという行為が怖くなっていた。