羊を逃がすということ

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【書評】パーク・ライフ | 目的地を告げないまま何処までも【吉田修一】

 

 

 吉田修一さんのパーク・ライフは、私が在籍していた前職の上司が勧めてくれた本である。

 

 正確には、勧められたのは別の作品だったが、その過程で本書の話題が上がったのだ。「公園にずっといる人の話」とその上司は説明した。何だそれは。俄然、こちらの本の方が気になった。お勧めされた本来の本は、タイトルを忘れてしまったので、私の中でこちらを勧められたものと解釈して辻褄を合わせている。

 

 余談ではあるが、私は公園が好きだ。家の近くに大きな公園があり、秋口にそこで本を読むのが好きである。遠くで子どもたちの声や、犬の鳴き声が聞こえて、開いた本に木漏れ日が落ち、時々涼しい風がページを勝手に捲ろうとする……読書の秋という言葉は、外で読む人の為に作り出されたものではないだろうか。

 

 夏真っ盛りなので暫くはクーラーの効いた部屋で涼むとして、もう少ししたら、また公園で本を読みたいですね。

 

 

  • あらすじ

公園にひとりで座っていると、あなたには何が見えますか? スターバックスのコーヒーを片手に、春風に乱れる髪を押さえていたのは、地下鉄でぼくが話しかけてしまった女だった。なんとなく見ていた景色がせつないほどリアルに動きはじめる。日比谷公園を舞台に、男と女の微妙な距離感を描き、芥川賞を受賞した傑作小説。

 

  • 書評

 あらすじは、文庫本の背表紙から拝借している。こちらは「パーク・ライフ」のあらすじとなっているが、本書にはもう一遍「flowers」も収録されている。こちらは「パーク・ライフ」と違って、何処となく生々しい話だ。男女のいかがわしい関係があり、その中で次第に緊張感が高まっていき、それが熟れた果肉のように破裂する。そんな小説だった。

 

 どちらも、話の筋を一筆書きで説明するのは容易ではない。というのも、双方ともストーリーの輪郭が曖昧で、まるで誰かの生活をそのまま切り出したような構造をしているからだ。特にその傾向は、「パーク・ライフ」で顕著だろう。

 

 例えば、この「パーク・ライフ」は、主人公が不慮の事故で見知らぬ女性に声を掛けてしまったところから話が始まる。もしこれが普通のメロドラマなら、ここから女と主人公のラブストーリーが始まりそうである。

 

 しかし、この本ではそうはいかない。主人公と女は公園で顔を合わせて何となく話すだけで、相手の職業も、名前すら知らない。主人公の周りには、キーマンになりそうな登場人物が何人か現れるが、彼らが何かしらの事件を牽引してくるということもない。ただそこには日常があり、その日常を連続的に描写するのである。

 

 ……とまあ、こんなことを書いてしまうと、じゃあその小説って中身がないんじゃないの? と思われてしまうかもしれないが、そうではない。ストーリーは、確かに前に進んでいるのだ。ただしそれは、巧妙に我々の眼から隠されており、文章のトーン感から推察する他ない。

 

 もっと言ってしまえば、トーン感だけが進行して物語の起伏を作り出していると言えるのかもしれない。それは際限なく続く無駄話のようでありながら、要所要所で読者を鳥瞰させ、物語の地図を構築していくかのようだ。

 そう考えると、この小説の主人公は公園や街であり、主人公周辺の個別的な事情は、ただその大きな視点を埋める為の構成要素ではないかという気がしてくる。「パーク・ライフ」はそうした遠景での物語なのだ。例えばそれは、公園を人体に見立てる主人公のモノローグに要約されているだろう。

 

上空から見れば、公園は縦長の長方形で、ちょうど人体胸部図のように見える。心字池がその形の通り心臓の位置にある。桜門からのイチョウ並木が、食堂のようにくねくねと延び、胃袋に当たる草地広場のなかを抜け、そのまま日比谷図書館あたりで腸のようにうねうねと蛇行する。とすれば、中幸門が肛門になる。日比谷公会堂の形をした膀胱がある。雲形池が肝臓で、第二花壇は膵臓になる。上空からは園内をうろつき回る人々の小さな姿も見える。大勢の人々が細い小路を抜け、噴水広場を横切り、あちこちの出口から外へ出てゆく。まるで汗のように、人々は園内からあふれている。

 

 不思議なのは、この物語がある種、爽やかであることだ。きっとその爽やかさは、良い意味で人の感情にフォーカスしていない物語によってもたらされたものだったのだろう。人の背負うあれこれを過大に扱わず、平面的な日本画のように、遠くから描写している。個々の表情は区別できなくても、それらはパースペクティブとして成立しているのである。だからこそ、不意に垣間見える人間ドラマに、思わずはっとしてしまうのだろう。

 

「flowers」はそこにもう一歩踏み込んだ、非常に人間的な話である。そこに含まれるグロテスクは、単純な暴力ではなく、割り切れない感情の塊に裏打ちされている。論理的ではないが、そうなっても仕方がないと割り切らざるを得ないような、遣る瀬無さに満ち溢れている。希望のない話と言えば、そうかもしれない。

 

 両者に共通しているのは、エモーショナルな部分を常に自分から切り離し、一歩引いた目線から描写しているところだろう。片方はそれを街という包括的な概念で覆い隠し、もう片方は人間的な動作に焦点を合わせることによって、その奥に眠る感情を直接掬いだそうとはしない。それはさながら、目的地を告げないままタクシーで何処までも運ばれていくような感覚である。

 

 何処に行くとも知れないまま、車窓からの景色を見流している。