羊を逃がすということ

今日ある本が明日もあるように

【書評】起きられない朝のための短歌入門 | ストレンジャーであるということ【平岡直子、我妻俊樹】

 

 

 先日、新潮新人賞の結果発表があった。例に漏れず、私は応募していたのだが、今回は二次選考突破三次選考落ちという結果で終わってしまった。

 新人賞に応募しているアマチュア作家の方々なら共感していただけると思うのだが、やはり雑誌に名前が載るのは嬉しい。嬉しい反面、こんなことで喜んでいては駄目だとも思う。だが、嬉しいものは嬉しい。ちょっと誰かに言いたくもなる。

 

 そんな浅ましさから、知人にしれっと自慢してしまったところ、まさかの私のXアカウントがバレてしまった。同名のアカウントは結構いたようだが、恐ろしいことに私はXにも新潮新人賞の結果報告を上げていて、あえなく御用となった次第である。

 

 ちなみに、私はXで自作の短歌を披露している。ひっそりとした個人的な趣味である。そんなものを見付けてしまえば、いじってしまうのも無理からぬ話だろう。

 

 という訳で、身から出た錆ではあるが、私の短歌が他者の眼に晒される事態となってしまった。こうなっては中途半端なものを仕上げる訳にはいかない、きちっとしたものを作って開き直るしかない。そんなみっともない自尊心の為に、短歌の入門書として購入したのが本書「起きられない朝のための短歌入門」である。歌人の対談という形式で、短歌のノウハウを習得できるという優れものである。なので、平岡直子さんと我妻俊樹さん、二人の著者がいる。

 

 お二人の言葉に姿勢を正しつつ、今からでも遅くないと、ストイックに学ぶ所存である。

 

 

  • あらすじ(代わりの著者の言葉)

「難しいのは、自分の短歌を物足りなく感じはじめたときだ。なにを、どう書くべきなのか。自分の文体とはなんなのか。ヒントとして、脳をこじあけて強制的にまぶしい光を浴びせてくるような言葉がこの本のなかにひとかけらでもあればいいと思う」平岡直子

「他の入門書を読んでなんだかしっくりこなかったり、短歌で道に迷ってしまったと感じている人がこの本を読んで、なにかしら励まされるところがあったとしたらとてもうれしい」我妻俊樹

 

  • 書評

 短歌の難しさは、その歌の背後にどれほどの情景が含まれているかを、断片的な情報で伝えるところにある。それは共感覚的な情景であり、ある言葉の周辺に配置されたイメージを引っ張ってくることで、文字数の制約を超えて世界を広げる試みである。そう私は思っていた。今でもそうなのだろう。

 

秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く  佐藤佐太郎

 

 例えば、上記のような短歌は、まるで絵葉書のように美しい構図である。電車の窓から差し込む四角形の陽光が、そのまま電車に揺られて運ばれる様が眼に浮かぶ。これを、長々と、「窓から差し込む陽射しが電車の床に落ち……」などと説明すれば、情緒もへったくれもないことだろう。

 

 少なくとも私は、短歌が少ない言葉で大きな情報を伝達する能力があることを、間違いだと思ってはいない。やはり短歌は散文と違い、一度で提示できる情報量に限りがある。

 正確な情報の提供を諦め、内発的な情景で補完させることで、話者と読者のコミュニケーションが成立する。光が電車で運ばれるなんてことは有り得ないが、そう書いてしまうことで、電車という人間社会の縮図にぽっかりと空いた光の窓を、著者は完全に描いているのである。

 

 これが内発性のマジックなのだろう。内発的な情景というのは侮れない。何故なら、自分のうちから出た言葉というのは、筆者が託す言葉よりも、ずっと真摯で誠実に響くからである。

 

 しかし、ある意味でそれは意味に囚われ過ぎているのかもしれない。無論、上記の短歌を非難する意図ではない。というよりも、上に引用した佐藤さんの短歌は、情景描写が秀逸すぎて、他に言葉を選びようがないだろう。そうではなく、私が言いたいのは、ただメッセージを伝えるためだけに詠まれた短歌のことだ。例えば、これは私が過去に詠んだ短歌だ。恥ずかしながら、引用させていただきたいと思う。

 

スパゲッティ、初めて巻いて食べた日に頬張ったのは夢の大きさ

 

 んー、身もだえしてしまう。こいつは良くない。あまりにもメッセージを託し過ぎているのだ。

 

 そもそも言葉というのは、メッセージが乗らなくても、言葉として存在するのだ。例えば、世の中にはwikipediaの中にある言葉から31字を抽出して、短歌のように詠み続けるボットが存在するらしい。これを歌人が評価しているのが印象的だった。

 下記のような短歌も、それに近しい場所に位置しているのかもしれない。

 

相思相愛おめでとう ミュージック・オブ・ポップコーンおよびバラバラ死体のケーキが乳房  瀬戸夏子

 

 唐突に現れる乳房は、エロティックというよりグロテスクである。それは、「相思相愛」、「ミュージック・オブ・ポップコーン」、「ケーキ」という煌びやかな言葉が並ぶ中での、「バラバラ死体」と「乳房」の語の異様性がもたらす結果である。

 

 もしバラバラ死体がなければ、「乳房」という語は相思相愛やケーキと結びつき、もっと晴れやかになっていたかもしれない。ある意味でこのバラバラ死体という語句が、ケーキのような浅ましくて甘美な世界との懸け橋として、人体の一部を利用しているのである。

 

 言葉は、ただ単一の意味を担うだけでなく、言葉としての存在感があり、力がある。言葉同士の結びつきが生む化学反応があり、文法や定型をずらすことで生じる驚きもある。短歌を、小さな謎掛け道具にしてしまうのは、やはり勿体ないのだろう。

 

 例えるならば、それは芸術の世界に近いのかもしれない。西洋美術史は宗教絵画から始まり、写実的な絵や、絵の中に秘められたストーリーというものを離れて、画材や見るという行為、視点、焦点など、描くことそのものを題材にしているように思う。表現するという試みは、きっと心情を描くという領域に、いつまでも留まっていられるものではないのだ。

 

 けれど同時に、そうやって先鋭化されたモティーフは、共感という足場を失って、理解の彼岸に達してしまう恐れもある。前衛芸術がある種の嘲笑の的となり、短歌が近代文学の主戦場から退いたのは、そこに所以があるのかもしれない。

 

 だが、それはきっと必要なプロセスなのだ。自分の理解できる範疇を超えた、奇跡のようなものを導く瞬間、それが本当に価値のある表現となるのだろう。言葉が言葉を捉え、導き出した表現。それは一見すると、意味の分からないランダムな文章のように見えるかもしれない。だがそのストレンジャーが闊歩する領域にこそ、新しい光明があるのだ。

 

 本書は、そんなストレンジャーたちの細やかな道しるべである。短歌って自由でいいですね。

 

(そうはいいつつ、ちゃっかり自慢)