
「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」は、言わずと知れたゲーテの名著である。これまで「若きウェルテルの悩み」、「ファウスト」を読んで来た私にとっては、三作品目のゲーテということになる。
ゲーテという作家について、ごく個人的なことを言わせてもらうと、読んで熱烈に感動した経験があるかと言えば、そうでもない(すみません)。
例えばウェルテルを読んだ時は、「あれ、こんな感じ?」と肩透かし感を食ってしまい、もう一度読み直した。ファウストも教養として知っておかなければと思い読み、「なるほどね」と納得だけして、本を閉じてしまった。でもこちらも後日気になって再読した。蓋を開けてみれば、二作ともしっかりと読み返している。
ゲーテにはどうやらそういう力があるらしい。その魅力は大味の変わり種などではなく、むしろプレーンなパンのそれに近いのかもしれない。ジャムの味を期待していては、見落として当然と言わなければならない。
中でもこの「ヴィルヘルム・マイスター」が私の心を惹いたのは、その明らかに異質なタイトルの為である。よくよく思えば、ゲーテの作品はタイトルが印象的なものが多い。そこに名前が含まれていることもままあるようだが、中でもこの「ヴィルヘルム・マイスター」はフルネームである。おまけにマイスターであるというのに、修業時代だというのだ。
そんなヴィルヘルムが演劇の世界に情熱を燃やすこの小説は、様々な人々や社会を巻き込みながら、運命の終着点へと収束していく。私事ながら、最近新人賞に落選したばかりで、思わず手に取った次第である。

- あらすじ
舞台は18世紀封建制下のドイツ。一般女性との恋に破れ、演劇界に身を投じた主人公ヴィルヘルムは、そこで様々な人生の明暗を体験、運命の浮沈を味わう。ヘルマン・ヘッセやトマス・マンが範としたドイツ教養小説の代表作。
- 書評
私見であるが、ゲーテは調和というものに重きを置いた作家だと思っている。その集大成は「ファウスト」だろう。読んだことのある方ならきっと同意していただけると思うが、「ファウスト」という作品はかなり混沌としている。魔物やら魔女やらが顔を出し、悪魔メフィストフェレスを起点に、正常な世界はあっけなく放逸な地獄と混ざり合う。
しかし驚きなのは、ゲーテがこの縦横無尽な物語を、一つの完成形として着地させているという点である。それもただ単純に物事の辻褄を合わせるだけでなく、ストーリー的な起伏に合わせて、きちんと話を畳んでいるのだ。私は長らく、この感覚を上手く言葉に出来ずにいた。だが最近、少しゲーテがやりたいことが分かったような気がする。
ゲーテはもしかすると、ある種の本能的な嗅覚で、物語の完全な形を捉えていたのではないだろうか? 論理的な辻褄を追求するのではなく、ストーリーが自然と浮かび上がらせる奇跡のような瞬間を、必死に手繰り寄せようとしていたのではないか。
ファウストがあそこまで混沌的な広がりを見せたのも、精巧な設計思想に基づいてではなく、その場で起こるべきことを書き連ねた結果だと考えるとしっくり来る。その上で、自分が書き出したものを受け入れ、適正な終着点を見出したところに、ファウストにおけるゲーテの妙技があるのだろう――私にはそんな風に考えている。
「ヴィルヘルム・マイスター」は、それに比べるとやや論理の側に傾き過ぎたようである。長大な物語を強引に整えようとした所為で、どうにも予定調和なところがあるように感じてしまう。
しかしその欠点を理由に捨て置くには、「ヴィルヘルム」は惜しい書物である。むしろそのゲーテの試行錯誤は、彼が書こうとするものへの足掛かりとして参考にすべきなのかもしれない。
「ヴィルヘルム・マイスター」について取り上げるべきは、その多岐に亘る登場人物たちのバックグラウンドだろう。物語を進行する為の狂言回しのような役回りではなく、それぞれのキャラクターが自身の考えに基づいて行動した結果が、しっかりとヴィルヘルムの生き方に足跡を残している。
中でも注目に値するのはミニヨンだ。劇団に売られ、鞭で打たれながら働かされていたミニヨンは、ヴィルヘルムに助けられる。当初、ヴィルヘルムにとっての血の繋がらない娘のような立ち位置であった彼女は、物語が進むにつれ、次第にヴィルヘルムを愛するようになっていく。
ミニヨンは、作中であまり多弁な方ではない。だからこそ彼女の成長や挫折は、より色濃いものとして胸に残るのだろう。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」は教養小説と呼ばれるが(教養小説とは、人間の成長を描いた小説ジャンルのことである。正確には成長小説とでも呼ぶべきか)、その意味ではヴィルヘルムよりも彼女の方にこそ焦点が当てられるべきだ。彼女の成長もまた、ヴィルヘルムの成長に欠かせないものであったのは明らかなのだから。
なのでこの記事の最後は、彼女が作中で口遊んだ歌で締めくくりたい。
われを愛し、われを知る者は、
遠くにあり。
眼くらみ、
胸うちや燃ゆ。
憧れを知る者のみが、
わが悲しみを知る。

