羊を逃がすということ

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【書評】言葉のトランジット | スタックメモリを探索する【グレゴリー・ケズナジャット】

 

 

 中学の頃、日本語は世界で二番目に難しい言葉だと塾の講師が言っていた。そう言われると、当然ながら一番が気になるところだが、その講師は教えてくれなかった。きっとその人もどこかで聞きかじった話を口にしただけで、何か根拠があった発言ではなかったのだろう。

 

 結局、仲間内で話し合って中国語だろうというところに落ち着いた。何せ方言が沢山あるのだから、覚えるのだって大変に違いない。誰が言い出したのかは定かではないが、その説明は何となく筋が通っているような気がして、私も自然とそれを受け入れたのだった。即ち日本語は、世界で二番目に難しい言語であると。

 

 実際のところはどうなのだろう。友人のベトナム人(英語と日本語、それから勿論ベトナム語も喋れる)は、日本語は確かに難しいと言っていた。彼・彼女らは特に数詞に苦労しているようだった。一匹、二匹、三匹や、一日、二日、三日。日本語ネイティブが何気なく読むこれらは、一つ一つ読み方が違っていて、外国語話者にとっては無限のバリエーションに思えるらしい。

 

 だがしかし、それは母語との親和性や、文法との相性によるとしか言いようがないのだろう。日本人だって母国語のように外国語を使いこなす人も少なくないし、逆もまた然りである。

 それでも日本語という言語体系にある種の特別感を抱いてしまうのは、そもそも自分の周囲がほとんどそれに取り囲まれてばかりいるからだろう。外国語が持つ異質さが、反転して自分たちの環境を特異なものに見せかけてしまっているような気がする。

 そんな中で、今回取り上げるのはグレゴリー・ケズナジャットさんの「言葉のトランジット」である。芥川候補作家ということだが、私が知ったのはこのエッセイが初めてだ。

 

 英語と日本語。二つの言葉の境界面で行きつ戻りつする著者のエッセイは、言葉との独特な距離感に溢れている。それはユーモラスであり、痛みを伴うものでもあり、驚きや発見に満ちたものである。

 何より言葉に対する愛に満ちた書物である。言葉への愛を言葉にする、その自家撞着は、残念ながら言葉に出来ない。

 

 

  • あらすじ

言葉と急きあh、再発見に満ちている。

旅に出かけ、見えてきた景色。

2つのレンズを使って英語と日本語の間を行き来する芥川賞作家の初エッセイ集。

 

  • 書評

 日本語が上手すぎる。

 まず大前提が、それである。外国語話者が不器用ながら綴ったとか、そんなレヴェルではない。間違いなく言えるのは、その圧倒的な語学力である。日本語話者が日本語で書くのと大差ない、どころか、妙に尖ったことをしていない分そこらの文章より理解しやすいくらいである。

 日本では珍しい外国人エッセイなのかと侮ったなら、1ページ読んで襟を正さなければならない。そしてこれは、日本人とか外国人というようなレッテルではなく、一文学作品として評価しなければならないものだと、気を引き締めなければならない。

 

 正直に告白すると、私がまさにそうだった。最近、エッセイに嵌っている私は、珍しく海外の作家のエッセイが売られている(そしてそれが翻訳されている)と思ってそれを購入した。しかし表紙のどこを見ても、翻訳者の名前がない。背表紙にもない。読んでいてやっと気が付いた。これは著者が間違いなく自分の手で書いているものだ。それも、著者の身に起きた出来事が、非常に切実に文章へと書き起こされている。何故そう思ったかと言えば、エッセイの随所で英語と日本語に纏わるエピソードが差し挟まれるからだ。

 

 そもそも、タイトルである「言葉のトランジット」がそれを示唆している。トランジットは乗り換えを意味するそうだが、収録されたエッセイの一編である「スタックメモリ」を見る限り、IT系の用語と考える方が自然かもしれない。

 IT界隈でのトランジットという言葉は、「あるネットワークから別のネットワークに接続する際の接続形態」のことと定義されている。英語から日本語へ、それはその上位クラスであるアメリカというネットワークから日本というネットワークへの接続も暗喩しているのかもしれない。

 

単語であれビットであれ、情報の伝達は常に不完全で乱雑なプロセスだ。

 

 上記の引用から容易に想像がつくように、著者の言語に対する距離感はユニークである。ドライとでも言えばいいのだろうか。私には暗黙の裡に、著者が言葉の神話性を否定しているように思えてならないのだ。それは例えば、日本語は世界でn番目に難しい言語である、というような表現であったり、日本語には日本人にしか分からない独特の感性がある、というような神話である。

 

 そのような神話性の否定は、自然な延長としてそのまま外国人というレッテルへの批判に繋がる。だがここで重要なのは、著者自身が言葉の違いを通してある種の境目を行きつ戻りつするように、「丸きり同じだ」というような振り切った結論を出していないことである。大体の物事は人が期待するほど単純に割り切れるものではないのだろう。外国と日本、英語と日本語。その曖昧さを適切に受け止める姿勢が、トランジットという語句をタイトルにせしめたのかもしれない。

 

 他にも、先に引用したスタックメモリという一編には、次のような言葉がある。

 

言葉も進化するものだ。かつて最先端だった単語は廃れ、一世代によって激しく議論されていた言葉は次世代にとって自然な表現になる。言葉は絶えず生成され、蓄積していく。意思の疎通をしないといけないから、僕らは毎日何気なく言葉というツールを使うけれど、カバーを外して内部を覗き込むと、普段は意識もしない部品が稼働している。

 

 スタックメモリのスタックとは、積み上げるという意味だ。文字通りメモリ内に情報を積み上げ、一番最上位のものから取り出すことになる。最奥部に秘された言葉は誰に触れられることなく埋もれ続けることだろう。

 

 まるで本のことのようではないか。そんなふうに思ってから、私はこの本が途端にとても愛おしいもののように思えてきた。本という名のメモリ。それにいつでもアクセスできるのが、読書の醍醐味である。そしてその言葉は、血肉として変換されたのち、私の身体に積み上げられていくのだろう。