
このブログは書評ブログで、割合としては小説が多いのだけれど、今日は少し変わり種。「随風」という文芸誌を紹介したい。
文芸誌、というのは、所謂「本をよく読む人」でも今日日あまり買わない類の雑誌かもしれない。正直なところ私も、新人賞の応募時期や、結果発表の時期に手に取るくらいである。どうしても小説は、自分の好きなタイミングで好きなものを読みたくなってしまうのだ。だからこそ、月々出てくるものを追い続けるというのは体力がいるし、他にも山ほど読むべき本が積まれているので、どうしても優先度が低くなってしまう。
そんな私が、どうしてブログで文芸誌を取り上げようと思ったかというと、本誌が今年の3月に創刊されたばかりだからである。聞きかじった話によると、昨今文芸誌の売上はどの出版社でも苦しい思いをしているという。そんな中での新しい船出、しかもジャンルが、随筆である。
随筆に特化した文芸誌。おまけに、よくある軽薄な三文記事の類ではない。歴とした文芸作品としてのエッセイを取り上げている。私の知る限り、そんなものが世に出たことはなかった。だが驚きと同時に、ある種のしっくり感もあった。
エッセイ。随筆は、確かに一つの文学表現だった。国語便覧を開けば、清少納言やら兼好法師やら、随筆で鮮やかに生活を描いた作家の話が紹介されている。しかし近頃、エッセイは文芸という枠組みから大きく裾野を広げ、どちらかというとそれは作家や著名人の余技になってしまった。
勿論、それ自体が悪いことではない。それだけエッセイが市民権を得たということだろうし、それは広く長い息遣いで、人々の間に浸透しているのかもしれない。けれど、大衆化と引き換えに、ある種「軽んじられる表現」となったことも、また否定できないだろう。
そんなエッセイを、そんなエッセイだけで、まるっと一本の雑誌にしてしまったのが、この随風である。それはエッセイという語気に含まれるまろやかな雰囲気を吹き飛ばす、思い切った挑戦であることは疑う余地もない。何せ、エッセイに対する書評までもがエッセイなのである。そしてこの書評があるという事実こそが、エッセイをただの自己満足的な表現では留め置かないという、強い気持ちの表れのように思えるのだ。
他者の評に臆することなく挑むというのは、あるイデアに突き進むというのに似ている。理想があり、それを探求する、批評はそのプロセスである。それを文芸活動と呼ばずに、何と呼ぶのだろう。
さて、そんな訳で、ここからは印象に残ったエッセイの紹介。浅井音楽さんの「ばしばし飯田橋」。エッセイの端々から立ち上る、どうしようもない生活の臭いは、そのまま生きている場所を供してくれる。なんだかなあ、やるせないよなあ、そんな風に首を傾げながら、やたらめったらに速足で歩きまわった近所の散歩道を思い出した。そんなエッセイ。
かしまさんの「オセロ」、こちらも綺麗事ではないエッセイ。綺麗事ではないが、そもそも人間なんて汚い生き物なのだ。それに如何に向き合ってきたか(注:打ち勝ったかではない)というのが、きっと大切なことなのだろうと思う。それを技巧的に見せるという点において、「オセロ」という随筆は一等鮮やかである。
他にもくすりとくるエッセイや、胸に迫るエッセイが多数である。なんでも、2巻がそろそろ発売らしい。読書の秋に、随筆の風に吹かれてみるのは如何だろうか。

