
私は短歌が好きである。
俳句でも川柳でもなく、なぜ短歌が好きかと言うと、やはりその文量が丁度いいのだろう。俳句だと季語が入ってくるので、何かを表現するのに強い制限をかけられている気がする。川柳は、いわゆる「サラリーマン川柳」のようなもののイメージが強くて、滑稽なものを読まなければならないのではないかと力んでしまう。その点、短歌は適度に自由だし、季語もなく、また定型詩としての小気味いいリズム感がある。自然と言葉が出てきて、意図しない結びつきが見れたりするのが、気持ちいいのである。
しかし反面、歌集というものの評価は難しい。そもそも詩歌に類するものを評価するというのは、なかなか難行なのではないかと思う。例外はあれど、その大半は抽象化された言葉であり、それを具体化していくというのは、さながらハッシュドポテトからジャガイモを組み立てるようなものである。完全に元通りなんてことは出来ないだろうし、作ってみたらサツマイモになっちゃいました、なんてことも平気であり得るだろう。
だからという訳ではないのだけれど、歌集は肩ひじ張らずに読むことにしている。分からない短歌があったら、分からないで良いのではないか。自分で何か感じるところがあったなら、本当はどうであれそれが正解で良いのではないか? そんな気持ちで読んでみると、短歌の世界は自由で鷹揚に私を迎えてくれる。
そんな訳で、本日は歌集の紹介。岡野大嗣さんと、佐内正史さんの「あなたに犬がそばにいた夏」である。短歌を詠んでいるのは岡野さんで、写真が左内さんである。表紙の写真が素敵で購入した。青空をバックに、電柱の影と高圧電線が伸びている。その光景は、(タイトルも相まって)夏の無限大の広さを連想させながら、同時にどこまでも逃れられない原風景としての町を想起させる。
町、というのがこの歌集の大切なところかもしれない。例えば、こんな歌があった。
道のパターン 心に響く風景は心の所在に関心がない
歌集に収められた写真は、どれも日常の何気ない光景である。ただしそれは、人が主体になったものではない。休みの日、家でくすぶっていても仕方がないから散歩に出て、普段何気なく流している光景が気にかかり、写真を撮った、そんな雰囲気のものばかりである。
当然のことだが、街には思い出が染みついている。嫌なことも良いことも、誰しもが人生で抱えているに違いない。だがそれ以前に、町は町でしかない。その光景を自分の目線から一歩引いて眺めたとき、目の前にある当たり前がふと奇跡のような瞬間に見えてくるから不思議である。そしてその奇跡を短歌にして、写真にしたのがこの歌集である。意味を離れたエッセンスとしての風景が、束になって一冊の中で故郷を形成する。読み始めて読み終えたとき、何でもない街並みに胸が締め付けられそうになる自分が、なお不思議である。
よく見れば夏ってどこもアスファルト 記念に一枚撮っておくかな
木漏れ日を気づかないまま歩きたいゆったりとしたズボンをはいて
地下鉄の冷たい窓がほしくなる夏を見晴らす高台にいて
路線バスがゆっくり曲がるときめきにゆっくり動く駅前の影
Tシャツのよれにきれいな影が出るプレステよりもすこしリアルに
誰にでもある、当たり前の光景。共有されたことのない過去が、自然と歌集の中へとにじみ出ていく。読み終えたとき、私はそこに訪れたことのない故郷を見るのだ。その夏、私は飼ったことのない犬と、大きすぎる夏を過ごしたのかもしれない。

