羊を逃がすということ

今日ある本が明日もあるように

【書評】光と私語 | 歌を詠むことの自由さ【吉田恭大】

 基本的に、文学と呼ばれるものの最大の魅力は自由である。

 私がそう感じるのは、文学が閉じた行為だからだろう。聞きかじった話だが、かつて文学は声に出して読み上げるものだったという。それは本というものが貴重であったから、多くの人に伝える必要があったという意味かもしれないし、或いは音読することによって、読書という行為に身体性をもたらしたかったからかもしれない(論語素読のように)。実態は分からないが、きっとどちらの意味もあったことだろう。

 だが何にせよ文学の形態は変化し、今では電車やカフェのひと時で、さっと本を取り出してページを捲るのが主流となった。少なくとも私が生きている環境で、突然読んでいる本の中身を声に出す人に出会ったことはない。

 

 この閉じられるという性質は、非常に大切だと思う。例えば公共の電波に乗せた表現は、公共であるがゆえに一定の秩序が求められる。美化された愛、上辺だけの友情、コンテンツ化された努力、そして公共化された自己表現。カラオケで好きなロックバンドの曲を歌ったら引かれた、なんていうものはその典型かもしれない。

 

 勿論、そうした公共性の中で上手く自己表現を融和させるアーティストもいる。ただ、誰しもがそうなれる訳でもないし、なるべきでもないのだろう。大衆に消費された表現の末路は、陳腐と模倣である。そうして解釈された新しいスタンダードは、次の公共性に引き継がれるだけで、その先にあるのは絶え間ない否定の繰り返しでしかない。しかしだからこそ、閉じた表現は光るのである。

 

 窓を閉じる。読者と本との関係に制限することで、読書という行為は個人的なものに集約されていく。言うまでもなく、それは完全ではない。多くの人が読むベストセラーはもはや個人的とは言えないし、誤った切り取られ方をしてあらぬ物言いをされることもあるかもしれない。でもやはり、読書はどこまで行っても孤独な行為である。だからこそ、筆者は自分の好きなことを書けるし、読者はそれを自由に読む権利を有する。誤解する権利すらあるだろう。

 

 さて、前置きが長くなったが、今回私が読んだのは吉田恭大さんの「光と私語」である。この本は、まず奇妙な装丁をしている。プラスチック製のカバーに覆われており、歌集というよりもロックバンドの新譜を連想させる。表紙はクレーの絵を連想させる幾何学的な四角形。四角形は白・灰・黒をベースに統一され、俯瞰した都市の天井を記号的に表現したかのようである。

 

 本書を一枚捲って驚くのは、その四角形が表紙のデザインのみに留まっていないという点だ。それは歌集の中に入り込み、位置や縮尺を変化させながら、短歌と呼応するように新しい意味を導き出す。

人々がみんな帽子や手を振って見送るようなものに乗りたい

 

 例えばこの短歌の隣にある長方形は、まるで電車のようである。

 

人間の七割は水 小さめのコップ、静かにあなたは渡す

 

 この短歌の隣にある資格は、転げたコップを横から見ているようである。

 

 自由なのはこの幾何学模様だけではない。初めは大人しくしていた短歌の方も、やがて配置を自由に崩すようになり、色を変え、また元の位置へと戻っていく。玩具が自由に動いている場面を見たような、ユーモラスとも不気味とも取れない緊張感のあるひと時である。

 だが短歌そのものは、非常に殺伐でドライな、都会的なものが多くある。

 

PCの画面あかるい外側でわたしたちの正常位の終わり

家々のアンテナ全て西を向きその中の何軒かのカレー

恋人の部屋の上にも部屋があり同じところにある台所

陽ばかりが明るくて地震のあとに最後まで揺れてる避雷針

ヨドバシの二階はいつも眩しくてめいめい首を振る扇風機

 

 殺伐と書いたが、改めて書き出してみると、「カレー」とか「扇風機」とか、庶民的なワードも多い。ああそうか、と一人合点する。この殺伐した雰囲気は、描いている対象そのものではなく、その視点の側にあったのだ。さらりと書き込まれる正常位。家庭を抽象化し、一般化した末のカレー。恋人の部屋と相似形にある他人の生活、他人事のような地震。明るく潔癖でありながら、人間味のない家電量販店。
 

 それは当たり前のように日常にあり、当たり前のように私たちが生きている今である。土ではなくコンクリートに懐かしさを覚えるように、私はこれらの短歌に、擦り切れたブランケットのような安心を覚えるのだ。