先日、「ルックバック」という映画を見た。これがもう本当に素晴らしい作品で、劇場を去った後も暫く呆然としてしまう程だった。一時間足らずの映像でここまで心揺さぶられるとは思わなかった。まさしく傑作である。
このブログは、読書に纏わる記事を主としている。ブログを介して、少しでも本に興味を抱いてもらえばというのがそのコンセプトである。そういう観点から言えば、映画の話は本筋からそれた脇道という他ないのだけれど、思うところがあったので書いてみたい。何せこの映画、見た後で無性に何かに――例えば絵や、音楽や、小説や、勿論ブログのちょっとした記事なんかに――打ち込みたくて堪らなくなるのだ。まるで「ルックバック」に登場する二人の主人公の背中を追うかのように(無論、その努力量は到底及ばないのだけれど)。
以下、公式サイトより粗筋。
学年新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートから絶賛され、自分の画力に絶対の自信を持つ藤野だったが、ある日の学年新聞に初めて掲載された不登校の同級生・京本の4コマ漫画を目にし、その画力の高さに驚愕する。以来、脇目も振らず、ひたすら漫画を描き続けた藤野だったが、一向に縮まらない京本との画力差に打ちひしがれ、漫画を描くことを諦めてしまう。
しかし、小学校卒業の日、教師に頼まれて京本に卒業証書を届けに行った藤野は、そこで初めて対面した京本から「ずっとファンだった」と告げられる。
漫画を描くことを諦めるきっかけとなった京本と、今度は一緒に漫画を描き始めた藤野。二人の少女をつないだのは、漫画へのひたむきな思いだった。しかしある日、すべてを打ち砕く事件が起きる…。
監督は押山清高さん(「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」や「風立ちぬ」の主要スタッフだそうだ)、原作は「チェーンソーマン」の藤本タツキさんです。
- 感想(ネタバレ含む)
とにかく名作である。今まで見たアニメ映画の中で、十本の指に入るかもしれない。この文章自体、鑑賞してから日を置いて書いているが、全く興奮覚めやらない。恐らくもう一度足を運ぶことになるだろう。
「ルックバック」は決して派手な物語ではない。小学生の四コマ漫画から始まり、基本的にストーリーは等身大で描かれ続ける。主人公は時に天狗になり、不貞腐れ、優しくなり、不機嫌になる。その機微の描き方が秀逸であり、あっという間にその世界へと引き込まれてしまう。
特に私が好きなのは、藤野が京本に「ファンだった」と告げられた、その帰り道である。藤野は京本の身につけるはんてんの背中に特大のサインを描き、いま新作に取り組んでいるところだと嘯く。帰路の途中、雨の中を下手糞なスキップで駆け抜ける姿には、胸を打たれるものがあった。
だが、物語は順風満帆には進まない。二人で漫画を描き続けていたにも関わらず、京本は藤野から独り立ちして美大への進学を志す。藤野はそれを受け入れ切れず、結局喧嘩別れのような形で離れてしまう。そして藤野はプロの漫画家になり、京本は美大生となる。だが事件は起き、京本は命を落としてしまう。
ここで起きた事件というのは、2019年に発生した「京アニ放火殺人」を髣髴とさせるものだった。原作者の藤本先生が京アニのファンだったという話もあるから、関係はあるのかもしれないが(というよりも意識していない方が不自然なくらいだが)、飽くまで憶測の域を出ないのでこれ以上の掘り下げはしないでおく。
京本の死後、藤野はその自宅へと向かう。彼女が元々引き籠っていた部屋の前に辿り着いたとき、かつて自分の描いた四コマ漫画を眼にしてしまう。そこで藤野は、自分の描いた漫画が巡り巡って藤野の命を奪ったのだと思い至る。そして彼女は、その四コマ漫画を自らの手で破り捨てる。
ここから映画は、少しだけ演出的な描写へと舵を切る。ドアを挟んでパラレルの京本がそこにはおり、藤野と出会わなかった彼女の人生が描かれるのだ。
このドアを挟んだ演出は一級品である。以降のシーンは一見京本の視点によるイフ・ストーリーに見せかけながら、その実、それは作者が描く事件の背景(真相)である。だがそれが京本の(藤野ではない)描いた四コマ漫画という着地点を得ることによって、それと気づかない間に京本目線での物語へと回帰せしめるのだ。それは喧嘩別れした二人にとっての、ある種の再会として、ドアの向こう側へと藤野を誘うのである。
さて、「ルックバック」という言葉には複数の意味が込められている。それは単純に「後ろを見る」という意味から、転じて「過去を振り返る」、或いはやや不自然なシチュエーションになるが、「背中を見る」と解することも出来るだろう。
京本の部屋へと辿り着いた藤野は、文字通り「後ろを見」て、京本のはんてんの「背中を眼にする」のである。そのとき藤野は、自分の漫画の原体験である、あの下手糞なスキップを「思い返し」たのだろうか? その可能性はあると思う。
だが、恐らくそれだけではないだろう。藤野はそこで、ずっと絵を描き続けた京本の後姿を幻視したのではないか? 或いはそこに、自分自身の努力の影すら重ねなかったか? そこにあるのは単純な一対一の対応ではない。言ってしまえば、その場に含まれる様々な感情が、総体として藤野の背を押したのではないだろか。それは恐らく喜びの感情だけではない。辛いことも苦しいことも、全ては描く動機になったのだと、私にはそんな風に感じられるのだ。
まるで祈りである。作り続けることだけが、失われたものを供養するのだとでも言うかのように。作中、京本は藤野に問う。「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」
明確な答えは返されない。ただその背は、黙々と描き続けるばかりである。