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【書評】なめらかな社会とその敵【鈴木健】

 

 

 書店で本を買い求めるとき、「ジャケ買い」ならぬ「表紙買い」するのは、本読みとしての密かな楽しみである。前情報に踊らされず、パッとその場のインスピレーションで本を買う。結果として外れを引く経験を何度もしたが、不思議なもので慣れてくると自分に適した本というのが外観から分かるようになる。

 

「なめからな社会とその敵」は、少し前に私が地元の書店で眼にした本だ。海面と空のコントラストが印象的で、タイトルの「なめらか」とは異質なイメージでありながら、色や均一性にどことなく共通項を抱えるところが面白い。見たところによると、哲学書チックな香りがぷんぷんとする。こういう本を買って、本棚の肥やしにしてしまうことが多々ある。ただ時々、どういう訳か足腰を痛めそうなほど硬派な読書をしてみたくなるのだ。そういう訳で、以下はその概略である。

 

この複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か――。これが本書の中心にある問いだ。生命の起源から説き起こし、膜と核の問題が社会制度と地続きであることが、最初に示される。社会の〈なめらかさ〉とは、膜の機能を弱め、諸物が連続的なつながりをなすネットワークへと開いていくことにほかならない。それは、情報技術の支援の下、貨幣・投票・法・軍事というコアシステムの変革によって実現される。近代のメジャーバージョンアップだ……[文庫版背表紙より抜粋]

 

 

 さて、この本は小説ではないので、ネタバレにそれほど配慮する必要はないだろう。とは言いつつも、中身を知りたくないという方は戻った方が無難である。具体的な内容を書かなければ、粗筋以上の内容を表現し得ないからだ。

 

 矢張り最も大切なのは、この『なめらか』という概念だろう。著者曰く、そもそも生物はその成り立ちからしてなめらかではないという。何故ならあらゆる生物は細胞を持ち、その細胞では細胞膜によって溶媒内部のリソースを囲い込んでいるからだ。

 その細胞内では核がたんぱく質の合成をコントロールし、言わば核という小自由度で細胞という大自由度をコントロールしている状態と言える。そうして出来上がったたんぱく質は膜の一部分となり、さながらテセウスの船の如く構成要素を代謝しながら、膜は自身を存続し続ける。『オートポイエーシス』と呼ばれるこの境界生成・維持プロセスこそが、生命の本質なのだという。

 

 著者はこれらの前提に立ち、人と相互作用する社会というネットワークに着目する。この社会もまた、国家という膜に囲われ、政治という核によってコントロールされる一つのオートポイエーシス・システムである(「個体が作り上げたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型である」というのは私の好きな映画の台詞だ)。

 それらはリソースを分断することで自身の優位性を保ってきた。そしてこの本は、情報技術を念頭において、進化学的に発展した隔たりのある社会を、(いわばエントロピーを減少させるように)なめらかにすることを目的としている。

 

 初めに断っておくと、この本は非・なめらかな社会に対する処方箋という訳ではない。扱っているトピックには(当然のことながら)紙面としての制約があり、それに対して我々の暮らす世界はほぼほぼ分断を前提としている。その上で、可能な範囲でのなめらかさを模索し、投げ掛けるのが本書である。

 

 まず貨幣について。ここで著者は、PICSYと名付けられた伝搬投資貨幣を提案する。細かな説明を省くが、要するにこれは貨幣の支払いを投資と捉え、その貢献度によって支払元にリターンのある新貨幣である。

 次章で述べられる投票は、個人という概念を解体して分人を定義することで、スペクトラム的な民意のあり方を希求する。ここでもまた貨幣同様伝搬の要素が取り入れ、自身の影響が個人ではなく社会に波及するようデザインされている。

 この両者は厳密に数理的な解説がなされているが、慣れない読者は読み飛ばせるよう配慮されている。ちなみに私は一応理系で大学を出ているが、全く歯が立たなかった(本来は書評などと言える立場ではないのです、不勉強で申し訳ない)。

 

 仮にそれらの制度がある程度なめらかになったところで、それでも人々は真になめらかな社会を生きることにはならない。何故なら人々にとって、社会はあまりにもパラレル的に解釈されるものだからだ。エンコードとデコードの手順が異なれば同じ景色を見ることさえままならない――著作はAR技術に言及しながら、その複雑な世界のあり方を丁寧に紐解いていく。

 なめらかな社会を生きるとは、その異なるヴィジョンの世界を複雑なまま受け入れるという生き方に他ならない。その社会ではアドホックな法整備が必要になり、その為の手段として国民一人ひとりが個別的な契約を半自動で締結する、「自分=政府」というシームレスな秩序体系が仮想されている。

 またそのなめらかな世界では、敵は外部ではなく内部に抱え込まなくてはならない。著者はカール・シュミットを引用し、政治の本質は分断であると定義する。なめらかな社会はそれを否定するのである。

 

 ……とまあ、ここまで本の内容をさらったのだが、著者の博識と貪欲さには舌を巻く他ない。しかし現実問題として、これらはなめらかな社会の中で本当に上手く働くのだろうか?

 

 例えば、PICSYの項目で思ったことがある。著者はPICSYについて、社会への貢献を伝搬させるものだから、例えばそれは企業のような枠組みを超えた人事評価になり得るとする。

 利益を得るために効きの悪い薬を売る医者と、効き目の良い薬で患者を治してしまう医者、現代では前者の方が利益を上げる。ところがPICSYの社会においては、薬で治った患者の稼ぎ(の一部)が医者に返ってくるのである。良き医者と悪しき医者の手にするその差額こそが、社会への貢献度である。

 しかしこれは、そもそも良い行いには正当な報酬が期待できるという、言ってしまえば資本主義的な前提が隠れている。では医者と患者を介護士と高齢者に置き換えて見ればどうだろうか? 高齢者の介護は、間違いなく社会にとって必要な仕事である。しかし良い介護をしたところで、高齢者が若返って働けるようになる訳ではない。従ってPICSYでは貢献度がフィードバッグされない。

 

 まあ、これはPICSYの瑕疵というよりは貨幣制度そのものの瑕疵と言うべきかもしれない。PICSYが完全な制度でないことは、著者も認めるところである。そして、この本で述べられているなめらかな社会とは、10年や20年ではなく300年というスケールで構想されたものである。今から300年前と言えば、イギリスで産業革命が起こった辺りではなかったか? もしかすると科学技術の転換が、そうした貨幣制度の問題も解決してしまうかもしれない。

 

 なめらかな社会は、既存の社会と対比する時、そのなめらかさを減少させる。何故ならそこには「なめらかな社会」と「非・なめらかな社会」の二項が存在するからだ。そうではなく、なめらかさは少しずつ日常の固定概念を解きほぐしていかなければならない。現在の情報産業革命は、ある意味その端緒と言って差し支えないだろう。

 私たちはネット上に自分のプロフィールを晒し、劣化しないログとして様々な足跡を残し続けている。そうすることで、ネットという仮想的な空間における自己の境界をなめらかにしている。今後もその傾向には一層の拍車がかかることだろう。それらが臨界点を超えた時、我々は敵として反発するだろうか? それとも、新しいなめらかさを受け入れるだろうか?

 

 もし受け入れるとすれば、そこには絶え間ない謙虚さが求められる。完璧な人間など存在しないように、一点の曇りもないログもまた存在しないのだから。そこにあるのは、自己の恥を許容し、他者の失敗を許容する、緩やかな痛みの世界かもしれない。