「何の為に本を読むの?」
しばしばそう訊かれる。困った。私には本を読む理由などないからだ。それは「何の為に靴を履くのか?」とか「何の為にコーヒーを飲むのか?」といった質問と同じで、そもそも私の生活には読書が組み込まれている。今更盲腸のように切って捨ててしまうということは出来そうにない。
高校時代の話、塾の講師がこんなことを言っていた。「小説とは他者の人生を追体験する道具だ。だから沢山小説を読んだ方が良い」。私はこの言葉に違和感があった。
もし小説が追体験の道具なら、世の中に溢れる本は私の人生とは乖離した、非日常的な空想活劇ばかりになるのではないか? 確かに、世の中にはそういう本が多い。だが全てではない。中には生活を(ともすれば退屈なほどに)丁寧に描写した本もある。そして私はそういう本にも愛着を覚えるのだ。
しかしどうしてだろう。追体験の道具なら、そんなつまらない描写よりももっと派手で立派な物語りを好んで然るべきではないか? 果たして日常を追うことにどのような意味があるのだろうか? 或いは前提が間違っているのではないか?
多分、その通りなのだ。私にとって読書とは、決して追体験の道具などという実用的な効能を持つものではない。本を読むことによって、私は私を知ることが出来る。どうやら読書にはそういう力があるようだ。
話は逸れるが、その昔ある哲学の入門書に手を付けたことがある。そこにはこんなことが書いてあった。「色は物体に当たった光の反射である。つまり人が見ているのは光であって、その物体そのものではない。では闇の中で、その物体の本当の色を見ることは出来るだろうか?」
確かそんな具合だったと思うが、難しくて途中で放り出してしまったからうろ覚えだ。だがまあ、ここでこうして思い出したということは、少なからず手を出した甲斐があったのだろう。
例えば、林檎がある。白色光のもとでは、林檎は赤く見える。だが光の届かない海の底に沈めたとき、林檎から赤という要素は損なわれてしまう。でも林檎はそこにあり、その表面に触れることさえ出来る。消えてしまった訳ではないのだ。では林檎の本当の色は何なのだろう? そういう風な話であると、私は理解している。
そしてこれは、純然たる科学の世界を基準に見れば、設問そのものが間違っていると言わざるを得ない。色とは光の反射なのだ。光を介在しない色など存在しない。それは宇宙空間でラッパを吹き鳴らしてその音色を問うているようなものだ(勿論、真空なので音はしない)。
私は人の意識も似たようなものだと思うのだ。
人は、この社会の様々な光に照らされ、様々な色を返している。明るい色や暗い色、穏やかな色や冷たい色と、求められるまま万華鏡のように色調を変える。もしかすると自分自身にさえ、理想の色を見せようと藻掻いているのかもしれない。ともすれば本来のそれを見失ってしまうほどに。
そういう意味で、読書はダイビングに似ている。私たちは本の世界に没頭することで、世の中から距離を置き、暗い海の底へと沈み込んでいくことが出来る。冷たい水に満たされた静謐な世界。そこには私と、私の眼の前にある本しか存在しない。
だがそこには光がない訳ではない。きっと書物とは、この世で最も暗い光なのだ。それが仄かにこの身を照らす時、漸く私たちは本当の自分を知ることが出来る。私にはそんな風に思えるのだ。
つまるところ私にとって本とは、自分自身を知る道具に他ならない。そして読書家はみな孤独なダイバーなのだ。もしかするとそこで出会う林檎は、赤色をしていないかもしれない。或いは林檎だと思っていたものは、林檎ではなく檸檬なのかもしれない。
そういう自分を知れるのも、また一興である。