自慢ではないが、私は家族と仲が悪い。本当に自慢するような話ではない。
特に関係が悪いのは両親だ。理由はいろいろある。もともと夫婦仲がよくなかったとか、母親が妙な宗教に嵌っているとか、父親が旧時代的な亭主関白であるとか、学費の件で揉めたとか。もう今となっては、これだという明確な理由を指し示すことさえ出来ない。私は両親が嫌いなのだ。そして私は家を出た。
癌になったのは私の祖母だ。それと叔父。二人揃って癌になった。祖母の方は手術と抗癌剤治療を終え、ある程度は回復したようだが、叔父は今まさに入院する手前である。ステージ4で、最早手術さえもできない。
母から連絡があり、家族写真を撮ろうということになった。父は仕事で来れないが、弟は来てくれるのだという。母からすれば、自分の母親(祖母)と兄(叔父)、それに息子を加えた最後の家族写真になるかもしれない。普段は極力母と距離を置くことにしているが、流石に断れなかった。
帰郷である。祖母の自宅は私の実家から近くにあるので、実質、久し振りの里帰りとなった。スケジュールが厳しく、睡眠時間を削っての出立だった。両親のもとを出てから、そろそろ五年近くになるのだろうか。母とはやむを得ず何度か顔を合わせたが、父とは電話越しに「死ね!」と怒鳴りつけて以来連絡を取っていない。弟は(私に先達て)高校の頃に家を出たので、十年振りぐらいの再会である。
地元の街並みは、私がいた頃とは随分変わっていた。私が大学に通っていた頃に使っていた駅のエスカレータは、老朽化のため利用不可となっていた。見知った店も幾らか入れ替わりがあったようだが、そもそも久し振りだった為に何処が変わったのかもはっきりとしなかった。あれだけ通い慣れた祖母の家への道のりを、私は間違えてしまった。
祖母の家に着くと、母がおり、弟と叔父がおり、それから弟の彼女がいた。弟は髭が生えており、私よりも背が高かった。弟の彼女は美人だった(モデルをやっているらしい)。叔父は記憶よりも随分痩せていた。「抗癌剤治療でどうせ抜けるから」と、丸めた頭がまるで骸骨のようだった。
叔父の人生を思うと、胸が詰まるようである。叔父は統合失調症を患っている。まだ若い頃にそう診断され、仕事もせずにずっと家に引き籠っていた。私が社会人になり、祖母が癌と診断された辺りで、「このままではいけない」と叔父は思い立ったらしい。叔父は障がい者向けの就労施設で仕事を始めた。その矢先での癌である。
癌が発覚したとき、私は叔父に電話した。電話越しに叔父に尋ねられた。「ステージ4って治るんかな?」その問い掛けが、今でも鼓膜にこびりついている。酒と煙草を嗜んだ叔父だった。肺に癌ができ、それは肝臓に転移していた。
家族写真のカメラマンは、母の知人だった。母が熱を上げる怪しい団体の関係者らしい。よく喋る男だった。弟の彼女が間を取り成してくれなければ、きっとこの撮影会はもっときな臭いものになっていただろう。彼女は良い人物である。
何枚も写真を撮り、昼前に退散した。昼食の話が出たが、私は断った。祖母や叔父はともかくとしても、家族団欒というのは耐え難かった。最後にそれぞれに挨拶をして、祖母の家を後にした。
祖母の家からバス停までは、大きな坂を越えなければならない。そこは団地になっていて、似たようなアパートが壁のように連なっている。アパートの向こう側には中学校がある。私がもともと通っていた中学校だ。特に良い思い出はない。
夏の日照りにアスファルトが揺れていた。アパートのベランダでは洗濯物が気持ちよさそうに風にそよぎ、空は眼が痛いほど晴れ渡っていた。噴き出す汗を拭いながら、バス停への坂道を踏み締めた。
ふとリコーダーのメロディが聞こえた。アパートからだ。そういえば学生は夏休みだった。初めは何の曲か分からなかった。そのリコーダーは途切れ途切れで、メロディの全貌を伺うことが出来なかったからだ。
だが、不意に聴き馴染みのある音の並びが現れた。数奇なことに、それは童謡『故郷』だったのである。私は声に出さず、その覚えのあるメロディを口遊んだ。
夢は今も巡りて 忘れ難き故郷
私は駅まで戻り、近場にあったぼちぼちの店でラーメンを啜った。作り話のような本当の話だ。まだ朝の陽射しを脱し切れない正午前のことである。