キリギリスが怖かった。
虫全般苦手であるが、大半に抱く感情は恐怖ではなく不快感である。ところが、キリギリスという昆虫は怖い。特にその顔が怖いのだ。
その顔、まずは面長である。おたふく顔のような受け口でありながら、極端に小さな目がアンバランスで、何やらエイリアンのような不気味さを湛えている。首根っこを掴むと、ぞっとするほど傾げて抗議する。発達した顎も、鯨鬚のように細い触角も、見る者を恐怖に陥れる為に進化したとしか思えない。
ところが、この記事を書くにあたって改めて調べてみたところ、現れたのはつぶらな瞳の愛嬌のある顔ばかりだった。どうやら私が嫌っていた顔は、カヤキリやクビキリギリスと言った特定の種に限られるものらしい。
とは言えカヤキリもクビキリギリスもキリギリス科の仲間である。落ち度はキリギリス側にもあると言わざるを得ない。
という訳で、新潮文庫の『きりぎりす』である。太宰治の中期の作品群から、紀行文や随筆風味なもの、作者の得意とする女性視点の告白体のものを中心に組まれた作品集である。
私が太宰に初めて触れたのは中学の頃だった。『東京八景』に感銘を受け、『人間失格』やら『斜陽』やら、取り敢えずの有名どころは読んだ。
比較的若い頃から親しんだ身としては、太宰治が『暗い作家』として扱われるのは不当であると感じる。湿っぽいところはあるにしても、私の中での太宰は『告白の作家』である。自分の言ったことを傍から打ち消してしまうような、『どうしようもなさ』こそが『太宰らしさ』だった。
耐え難いほど卑屈になったり、健気にも恰好をつけたり、おセンチな言い回しに終止したり……その表現技法は多岐にわたり、『トカトントン』や『駆け込み訴え』のように技巧的に優れたものもあれば、『お伽草子』や『畜犬談』のようなユーモアを披露することさえある。
決して暗いばかりの作家ではないのだ。ただ作者の最期が最期だっただけに、そのイメージが徹頭徹尾染み付いてしまったらしい。なんともそれは、残念な話のように思える。
それで、今度の『きりぎりす』である。顔のイメージに引っ張られた訳ではないだろうが、それらの話を私は怖いと感じた。特に顕著だったのが、『日の出前』である。
太宰は告白の作家だと述べたが、それは決して竹を割ったように自分の意見をつらつら述べるという意味ではない。むしろその逆で、身の内にあるどうしようもない感情を、どうしようもなく吐き出してのたうち回る、それが太宰治のイメージだった。『きりぎりす』に含まれる作品たちにも、例に漏れずそうした要素が散見される。
だが『日の出前』や(同じく『きりぎりす』に収録された)『水仙』といった小説では、そうした血なまぐさい煩悶は鳴りを潜めてしまう。そこにあるのは現実を突き放したような無機質さである。他人事のような痛みが描写され、その文体も砂のように無味乾燥である。
思うに、それこそが太宰なりのトリックだったのではないだろうか? 他人事だからこそ、読む側はそれを直視しなければならない。美辞麗句や自己憐憫など介在する隙間はないのだ。もしこれが私小説風味の短編だったならば、太宰は自虐の中に自己への甘さを忍ばせていたことだろう。その客観性こそが、『きりぎりす』を怖いと感じさせる正体なのかもしれない。
逆説的ではあるが、それ故に『燈籠』のような小説の温かみは格別である。『燈籠』はこの『きりぎりす』の一番初めに収められた話である。読み終わったあと冒頭まで戻ると、私はこの電飾の灯りに心温められる思いがするのだ(何を隠そう、私はこの『きりぎりす』で『燈籠』が一番好きなのだ)。
そしてまた、私は胸の内の思いを新たにするのである。太宰治は、決して暗いばかりの作家ではない。告白の作家という像もまた、読み手側の勝手な憶測に過ぎないのかもしれない。きっと太宰にも様々な太宰がいるのだろう、キリギリスにも様々なキリギリスがあるように。我々はその虫の音に耳を傾けるばかりである。