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【書評】灯台へ|寄せては砕ける波のような視点【ヴァージニア・ウルフ】

 

 私は印象派の絵画が好きである。特に敬愛しているのはルノワールで、実物を前にしたときは吸い込まれるような絵に感動を覚えたものだった。

 印象派の特徴に、分割筆致と呼ばれるものがある。色は混ぜ合わせると黒に近付いていくが、隣同士に配置すると鮮やかな色彩を保持したまま混色のような効果が得られるというものだ。それを突き詰めたのが点描であり、印象派と呼ばれる一派の絵画が明るいのもそこに要因があるという。

 

灯台へ」を読み終えたとき、私が真っ先に連想したのはそれだった。「灯台へ」を一読すれば、その地の文が明らかに異質であることに気が付くだろう。単純な三人称や、1.5人称というのではない。その視点は登場するほぼ全ての人物の内面を網羅し、あちらからこちらへとシームレスに移行する。読んでいて、「はて、今のは誰の言葉だろう?」と首を捻りたくなるほどである。

 

 その複数の視点は、ある結論に導かれて一つの方向性を持つ予定調和のようなものではない。ある人物がある人物に対して好意を抱き、同時に侮蔑し、軽蔑しつつも美しさを認め、理解できないまま距離を置く。要するに、汲み上げられる機微は非常にリアルである。それらが独立の色調となって、この「灯台へ」の物語を埋め尽くすのである。

 

 言わば文学的な分割筆致で書き記されたこの物語は、個々の要素を取り上げると青春があり、喪失があり、絶望や混乱や喜びがある。それらが万華鏡のようにこの「灯台へ」の物語に集約されているのである。

 

 聞くところによると、「灯台へ」の挫折者は少なくないらしい。むべなるかな、しかし決して不親切な話ではない。何せこれは、たった二日の出来事を書き起こした物語なのである。そしてそれは、文学史上最も慎重に扱わなければならない二日間である。

 

 

  • あらすじ

「いいですとも。あした、晴れるようならね」

スコットランドの小島の別荘で、哲学者ラムジー氏の妻は末息子に約束した。少年はあの夢の塔に行けると胸を躍らせる。二日間のできごとを綴ることによって愛の力を描き出し、文学史を永遠に塗り替え、女性作家の地歩をも確立したイギリス文学の傑作。

 

  • 書評(ネタバレあり)

「あらすじ」は文庫本の背表紙から拝借したが、一部をカットしてある。書いてもストーリー的には問題ないのだけれど、その構成の妙も楽しんでいただきたいからである。是非購入された際は、迷いなく冒頭から読んでほしい。そしてその驚きを体験してもらいたい。

 

 さて、本書の構成上、どうしてもネタバレに言及しなければならない。普段は可能な限り避けて記事を書いているのだが、「灯台へ」はどうしてもその魅力に触れるにあたって、ストラクチャー的な側面に触れなければならないからである。そういう訳で、未読な方は(申し訳ないけれど)読了後改めて読んでいただくことをお勧めする。

 

 本書の最大の特徴は、冒頭に述べたシームレスな語り口調だろう。ある人物の内面から別の人物の内面へと述懐が遷移し、そのほとんどで本書は埋め尽くされている。それらの描写は哲学的要素が含まれていそうでありながら、その実、存外そうでもない。大半は当て所ない感慨を述べるばかりである。

 

 決してそれは悪口で言っているのではない。寧ろそれは、作者の人間観察の賜物と言えるだろう。この物語において、人間は特別な存在ではない。灯台に行くというだけで揉めたり、嫌気が差したり、逡巡したり……何だか、途中で出て来たカラスたちと大差ないように思える。この物語において特別な立ち位置を占めているのは灯台だけだ。それは第二部に入って顕著になる。

 

 第一部で人々が眠りについたのち、明日の灯台行きが不確定なまま、突然第二部で時間が経過する。その間に一部の主要人物であったラムジー夫人は死に、また二人の息子も命を落とす。荒廃していくラムジー家の別荘。だが清掃と修繕の手が入り、再びその別荘に人々が集まり出す。実に十年の歳月が過ぎ去っていた。そこから第三部がスタートするのである。

 

 変わらなかったのは灯台だけだ。二日の物語は、一日目と二日目で異なる時間軸に身を置いている。当然ながら登場人物も成長し、或いは老い、様々な変化を受け入れている。灯台は不変の象徴となって、過去と現在を繋ぎ止める楔として機能する。そして再びやってきたラムジー氏によって、未達に終わった灯台行きがなされるのである。

 

 この船の上での描写は繊細である。同乗する息子と娘は父親を恨んでいる。しかしそこに不器用な和解の兆しが見えないでもない。だが単純に、「家族の絆が確かめられました」とは問屋が卸さない。そこには自己のアイデンティティに憎しみを編み込んだ息子がおり、それに一見無頓着に見える父親がいる。達成されるのは、飽くまで灯台への道のりだけだ。

 

 もう一つ、別の視点がある。灯台へ向かう船を見つめるリリーである。彼女は十年前にやり損ねた絵を描いている。十年前の夕食の席で、絵の中央に木を配置することを思い付いたのだ。それを今になってやり遂げようというのである。

 彼女は亡きラムジー夫人への哀切を抱きながら、筆を進める。物語の最後、リリーはキャンバスの中央に線を引き、絵の完成を確信する。彼女は言うのだ。

 

ええ、わたしは自分のヴィジョンをつかんだわ。

 

 最後の一筆は、構想通り木を描いたのだろうか。しかしそこに木の描写はなく、飽くまでラインを引いたという文言に留まっている。私は敢えて、それが灯台のメタファーであると思いたい。リリーは船に乗らなかったが、彼女なりの灯台へと辿り着いたのだ。そうして十年の清算を果たしたのである。