方言は、一つの武器である。
それは標準語によるテキストが溢れかえり、ともすればあらゆる表現が均一化されるなかで、ある種の本音を担保するものとして機能するからである。しかしこれをコントロールするのは難しい。
私は大阪出身なので、普段は大阪弁を用いてものを言うが、文章にするとどうにも嘘っぽくなってしまう。似非関西弁のようになってしまうのだ。そして大阪生まれの人間は、アレルギーの如く似非関西弁に過敏になる(ように思う)。
良くも悪くも、カテゴライズされた大阪人という雰囲気がが鼻につくのだろう。誰もが阪神タイガースのファンではないし、たこ焼きで白飯が食える訳でもない。そんな訳で、粛々と標準語でブログを書いている。
「月ぬ走いや、馬ぬ走い」は、タイトルから伺える通り、沖縄に根差した物語である。本編にも多くのウチナーグチ(沖縄方言)が現れ、所々意味を推察しながら読み進めなければならない。その方言は言わば血であり、赤血球が酸素を運ぶように、そこにある舞台を生き生きとしたものに仕立て上げる。
一言で表すと、本書にはそんな沖縄の痛みや苦しみが詰まっている。我々本土の人間が綺麗だと感心する海が、どれほどの傷を飲み込んで来たのかを示さんとするかのようだ。
それを語るのは単一の誰かではなく、複数の当事者である。並行する物語の断片がそれぞれの傷口を描き出し、その積み重ねとして沖縄という大きな影を映し出している。それはきっと、無視することの許されない――しかし巧妙に蓋をされた――沖縄という土地の歴史についての物語である。
- あらすじ
先祖の魂が還ってくる盆の中日、幼い少年と少女の前に、78年前に死んだ日本兵の亡霊が現れる――。
時空を超えて紡がれる圧巻の「語り」が、歴史と現在を接続する!
- 感想
著者は21歳、現役の大学生である。私よりも年下で、当然戦争を経験したこともない。そんな作家が、戦争の傷跡をなぞりながら沖縄を描いていく。正直に言うと、少しの侮りと嫉妬があった。せめて凡作であれと願ったのは、ここだけの秘密である。
しかし新人賞受賞作というだけあって、矢張り並の作品である筈がなかった。
まず何より特筆すべきは、その語り口のアイデアである。本書は複数の登場人物が登場し、語り部となるが、よくある群像劇のように一つの事件を複数の視点から描くということに注力した代物ではない。尤も、全ての話を通して一つの大きな流れのようなものはあるのだが、それは飽くまで各断章を繋ぎ止める為に導入されたという程度の、緩やかな関係に留まっている。
私には寧ろ、物語を通じて歴史を描こうと模索する様子が、本書の中に見て取れるような気がする。それは小説の順路としては異端のアプローチと言えるのかもしれない。
大方の小説は、まず歴史という背景があり、その中で起こる事件が語り部によってストーリーに仕立て上げられる。しかしこの話では、まず複数の物語があり、それが小窓となって沖縄の歴史という全体像を鳥瞰できるようにデザインされている。そこには歴史をただの舞台装置としてではなく、生々しい記録として扱おうとする強い意思を感じることが出来る。沖縄の近代史を小さく圧縮するという試みは、斬新であると共に無類の形で成立していると言えるだろう。
もう一つは、言葉による結び付きである。タイトルにもある「月ぬ走いや、馬ぬ走い」という表現は、作中にも何度か登場する。複数人の語り部が異なる時間軸で共有するその言葉は、歴史という枠組みを超えた作者の意図である。私はそこに、本書に通底する願いを見るような気がするのだ。その言葉の説明として、次の箇所を引用したい。
月ぬ走いや、馬ぬ走いさ、浩輔、馬さながらに歳月は駆け抜けてしまうのだから、時を大事にすべし、けれど苦悩は結局なくなるものとしてほうってしまいなさい!
「月ぬ走いや、馬ぬ走い」。この言葉が出てくるもう一か所は、本書の中盤やや後方のラップのシーンである。散々戦争の被害や戦後の横暴を描写した後で、ラップでこの言葉を扱うというのにはきっと意義があるだろう。傷を忘れてはいけないが、しかしいつまでも痛みに囚われていてはいけない。それが本書の訴えるメッセージなのかもしれない。
少し話は逸れるが、最近Youtubeでひろゆき氏が基地反対派とやり合う動画を眼にした。その政治的意見は置いとくとして、興味を持って私は基地反対派の動機をインターネットで調べてみた。真っ先に出て来たのは、沖縄の綺麗な海が損なわれるからというものだった。次いで、沖縄住民の権利や、事故発生の可能性なんかが並んでいた。私はそれで納得したつもりだった。
しかし、本当はもっと根深い問題なのかもしれない。そこには私たちが忘れてしまった、沖縄の傷があるのではないか? そんなことを考えた。戒める為に呟かずにはいられない。月ぬ走いや、馬ぬ走い。