
「ツァラトゥストラはこう言った」は言うまでもなくニーチェの名著である。
私はどちらかというと、「ツァラトゥストラはかく語りき」というタイトルの方に馴染みがある。そしてこのタイトルに馴染んでいる理由は、キューブリックの撮った「2001年宇宙の旅」の所為だろう。
あの映画の最も有名なシーン、直列に並んだ月と地球と太陽を背景に、タイトルが表示される冒頭場面は、映画を見たことがなくてもパロディなどで眼にしたことのある人が多いのではないだろうか。薄っすらとした記憶では、あれをオマージュしたカップヌードルのCMがあったのではなかったか。その曲のタイトルが、当時「ツァラトゥストラはかく語りき」と紹介されていたので、私もその名前で覚えてしまった。リヒャルト・シュトラウスの作曲で、ニーチェの同名作品から着想を得たのだそうだ。
さて、そんな「ツァラトゥストラ」は、「神は死んだ」という衝撃的なニーチェの言葉で知られる。他にも「超人」や「永劫回帰」という思想で知っている方も多いかもしれない。私個人で言えば、「ルサンチマン」という言葉が印象的である。
弱者が強者に抱く、憤りや嫉妬のような複雑な感情のことを言うのだそうだが、私が学生時代、頻繁にその言葉を口にしている友人がいた。彼は物理をやっていたのだが、学徒としての道を諦め、一般企業に就職した。その際に彼が恨みがましく呟いていたのが耳に残っている。「所詮はそれもルサンチマンやねん」、そう彼は言っていた。
当然ながら、そんなニーチェ先生の本を書評などというのはおこがましい話で、精々勉強させていただいたというくらいのところなのだが、やはり読んだ上での感想くらいは言わせてもらう権利があるだろう。ツァラトゥストラは、こう言ったのである。

- あらすじ
晩年のニーチェがその根本思想を体系的に展開した第一歩というべき著作。有名な「神は死んだ」という言葉で表されたニヒリズムの確認からはじめて、さらにニーチェは神による価値づけ・目的づけを剥ぎ取られた在るがままの人間存在はその意味を何によって見出すべきかと問い、それに答えようとする。
- 書評
本来この書物は、書物単体ではなく、著者であるニーチェやその背景にある宗教的な文脈、歴史的な経緯を含めて読み解くべきなのだろう。それは、キリスト教に対するニーチェの批判的な態度からも明確に窺われる点である。
しかし残念ながら私はこの本しか読んでいないので、この本の内容だけで書く他ない。誤解や不足を恐れる方は、是非とも専門書を手に取っていただきたいと思う。
冒頭でも取り上げた「神は死んだ」という語だが、これはそのまま宗教の否定に繋がっている。ただし、そのニーチェの言葉がただの空虚な批判たり得なかったのは、そこで他の神を持ち出すのではなく、超人という概念を生み出したからである。
超人とは、宗教的な概念に救いを求めることなく、自分の存在をそのまま受け入れた人間のことを指す。これは当時のキリスト教をユダヤ教のルサンチマンと唱え、救いを彼岸に先延ばしする思想とは真っ向から意見を異にする。超人はそうした全能の神を否定し、大地に存在する個として自身の価値を認めていく。その価値は、誰かに与えられたものではなく、超人自身が規定した生き方だ。
対照的に描かれるのは、『おしまいの人間』たちだ。この『おしまいの人間』は、言ってしまえば宗教国家の極限にあるユートピアの人びとで、ツァラトゥストラの言葉を借りれば、「慰みとして労働に従事し、貧しくも富んでもいない平等な人々」である。
一見平和で幸福な状態に見える彼らは、ただ緩やかに衰退していくばかりで、そこにあるのは緩慢な死である。それを避ける為には、超人となって自分自身の生き方を見付けなければならない。そうツァラトゥストラは述べるのである。
しかし判然としないのはもう一つの重要な概念「永劫回帰」である。これは仏教概念における輪廻と似ているところがあるのかもしれない。その表現はあまりにも文学的・詩学的で、哲学概念としては定義に不足があるように思えるが、平たく言えば世の中を物質的な世界へと留めようとした思想のようである。所謂キリスト教的な終末論を否定し、あくまで此岸としての現世で物事が循環し、永遠であることを強調する。
超人にとって、この永劫回帰を受け入れることは必要不可欠だった。何故なら、もしこの世界を超越した彼岸を想定してしまえば、それは超人が超人たる所以と矛盾してしまうからだ。永遠に循環するこの世界で、それでも尚人生を肯定的に受け止め、生きようとするのが、この超人思想の肝なのだ。
印象的だったのは、ニーチェは受難ではなく喜びをもってこの永遠を受け入れようとしたところである。ツァラトゥストラはこの世の嘆きが深いことを認めながら、しかし喜びの方が一層深いと断言する。そして、嘆きの声が永遠を否定するのに対し、喜びは寧ろそれを永続させようと望むと喝破する。それは次の台詞に簡潔にまとめられている。
わたしはあなたを愛するからだ。おお、永遠よ!
さて、これはある種かなり理想的で豪胆な思想だろうが、果たしてその全てを受け入れることは出来るだろうか。残念ながら私には、ツァラトゥストラが訴えるほど全てを蹴散らして強く生きることは出来そうにない。とは言え『おしまいの人間』が正しいとも思えないし、自分自身がどのような軸で生きているのかと言えば、ところどころは自分の意思で、ところどころは世間の波に揺られながら、小ズルく生きているというところである。
ニーチェ自身は晩年、病の所為で発狂したとされているということも、書き足す必要があるかもしれない。果たしてその生涯が、超人を訴えるに相応しいものだったかどうかは、私には分からない。だが彼が、そこにある種の崇高さを見出していたのは確かなのだろう。
第四部の覚醒の場面は、哲学書としては稀有な美しさである。それと類似した美しさを、ニーチェは人類の中に見出そうとしていたのかもしれない。

